吉祥寺の戦前コンクリート建築(1)

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    当方の居住する井の頭は吉祥寺に隣接し、関東大震災後に多くの人が移住してきた地域です。

    井の頭や吉祥寺周辺では、戦前の築になる古い住宅などがバブル以前まで少なからず残されていました。そのいくつかは現在でも見ることができるはずです。(その数は不明ですが、、)



    その中で、日本の近代建築の発展に多く寄与したアントニン・レーモンド設計のコンクリート建築が吉祥寺駅の東西に残っています。


    レーモンド近影・戦後「JA季刊 アントニン・レーモンド」より

     

    以下のレーモンドに関する情報は、ほとんどが建築家で建築史家でもある三澤浩先生の著作と先生ご本人から伺ったものです。



    建築家レーモンドは1888年・明治21年に現在のチェコ、当時のオーストリア帝国領クラドノに生まれました。

     

    プラハ工科大学を中退後アメリカに渡り、アメリカの国籍を得た後、建築家フランク・ロイド・ライトのもとで所員として働いていたことが縁で、当時ライトが設計していた帝国ホテルの現地担当者として日本にやってきました。
    その後ライトのもとを離れ、日本で建築家として活躍し、コンクリートの一般建築から木造の個人住宅まで多くの建物を設計しました。

    彼の事務所には日本の現代建築に貢献した前川國男や吉村順三が在籍していたこともよく知られていて、レーモンドが我国のモダニズム建築に与えた影響は技術的にも思想的にも計り知れないとおもわれます。


    レーモンドは木造建築では、たとえば軽井沢の聖ポール教会などがよく知られていますが、

     
    軽井沢 聖ポール教会 1930年

    なんと言っても、打ち放しを含めたコンクリート建築をおそらく戦前の日本では最も多く作り出した建築家です。(この技術は戦後の日本のコンクリート建築の発展にも多く引き継がれました)




    さて、吉祥寺周辺にあるそのコンクリート建築とは、
    有名な東京女子大学と、個人邸:旧赤星邸です。



    まず、東京女子大学です。
    東京女子大学は大正7年の設立で、大正13年に現在の杉並区善福寺(当時豊多摩郡井荻村)に移転してきました。その移転計画からレーモンドはかかわっていたようで、現在でも彼の設計になる戦前築の校舎が数棟残されています。


    敷地は、五日市街道の北を走る通り:文字通り「女子大通り」と呼ばれている道路に面しており、北側は善福寺公園となる場所にあります。
    周辺は現在閑静な住宅地ですが、おそらく大正期では都内から遠く、結構さびしい場所であったはず。当然周囲に学生用、それも女子向けの下宿などなかったと思われます。そこでキャンパス内に学生寮を建設することから移転事業が開始されました。
    このほか教員の住居もつくられ、これは現在でも記念館などに転用され、現存しています。


    女子大通りから学内を見ると、まず目に付くのがチャペルの塔と、その奥にある旧図書館(現・本館)です。


    チャペル・女子大敷地内から


    チャペル・塔 中央線の車窓からも見える


    旧図書館、現本館・正面

    この二つの建物はレーモンドに影響を与えた二人の建築家のスタイルをそれぞれ伝えています。


    その建築家とは20世紀前半を代表する建築家フランク・ロイド・ライトと、近代建築史上重要な位置を占める、フランスを代表する建築家オーギュスト・ペレです。


    この建物のうちで、旧図書館がライトの影響下にあることはすぐにわかります。

     


    フランク・ロイド・ライト Frank Lloyd Wright 1867〜1959

    20世紀前半を代表するアメリカの建築家。水平線を重視し、地を這うように大地に根ざした形体と、劇的な内部空間を持つ住宅やその他の建築を作り出した。帝国ホテルの設計のために来日し、数件のプロジェクトにも携り一部は後に完成している。  写真はライト回顧展図録より

    前述の通りレーモンドはライトのもとで働いており、ライトの帝国ホテルプロジェクトの現地担当となる形で来日しています。


    ライト設計の旧帝国ホテル 1923年竣工 同上回顧展図録より

    ライトのスタイルを一概に述べしまうと、帝国ホテルでは、左右対称の象徴的なプランニングと、寄棟の屋根と深い軒、縦長に割り付けられた開口部、そして華麗な装飾といったところでしょうか。
    加えてスクラッチタイルと大谷石を採用して、独特の世界観を作り上げていました。



    帝国ホテルでライトが採用したスクラッチタイルと大谷石の装飾
    明石信道「旧帝国ホテルの実證的研究」より


    本館:旧図書館は正門を入った軸線上の要の位置にある象徴的な建物で、左右対称の構成、寄棟の屋根、縦長に割り付けた象徴的な開口部、なおかつ中央最上階の隅の部分をへこませたシルエットなどライト風のデザインを受け継いでいます。


    女子大本館・正面


    ライト設計・ウィリッツ邸 1901 「ライト回顧展図録」より
    中央部屋根の形態(寄棟)や、隅の扱いなどが共通している


    昭和6年竣工のコンクリート造建築ですが、戦争中は空襲に備えて迷彩塗装が施され、戦後現在のような白亜の外観に塗りなおされています。ということで竣工当初は打ち放しであったのでしょうか、そのあたりは当方今ひとつ定かに出来ません。


    レーモンドが来日したのが31歳の時。
    それ以前はアメリカのキャス・ギルバートの事務所やヨーロッパで働いていた時期もあったようですが、自ら設計し建物を竣工させたことは、まずなかったと思われます。
    いわゆる実作をものにしたのは来日してからと考えて間違いありません。
    来日の約1年後(1921:大正10年)には帝国ホテルの仕事を離れて「独立」をするのですが、その前後からなぜか次々と仕事を依頼されています。

    東京女子大のプロジェクトはこの頃はじまり、キャンパス計画から各建物の基本的な設計など着手していたと想像出来ます。つまりは建築家のキャリアとして初期の仕事ということです。


    建築のみならずどんな表現活動でも「駆け出し」のときは模倣や習作からはじまり、それも先行する他者からの影響から逃れることは、ほんのわずかの天才以外は、不可能といってよいでしょう。


    旧帝国ホテル中央部外観「ライト回顧展図録」 
    女子大本館につながるものがある


    レーモンドも例外ではなく、ましてや建築家として接した相手がライトであったこともあり、その強烈な個性からは逃れることは出来なかったのではないでしょうか。

    この旧図書館や他の校舎では、外部仕上げにライトの採用したスクラッチタイルや大谷石を使ってはいませんが、全体の構成はその影響下にあり、これにレーモンドが建築を最初に学んだプラハで隆盛していたキュビズムの手法が加えられています。



    チェコ・キュビズムの建築
    ヨゼフ・ホホール設計 「煌くプラハ」展図録より



    ホデック・アパートメント 1914

     
    ヴィシェフラッド3世帯住宅 1914    コヴァジョビッチ邸 1913

    キュビズムは学生時代のレーモンドにとって最初に体験した手法の一つであったはずで、このなじみのスタイルを使うことが若き建築家にとって安心な武器となっていたと勝手に想像します。


    表現の世界において他者の追随を許さぬような独自のスタイルに到達し、それがその世界で重要な様式の一つになるような体現者は、一時代においてわずか数人のみでありましょう。

    その他大勢の人々は神に選ばれた先駆者の手法を学び、模倣しあるいは焼き直しながら「作品」を作り出すほかはありません。
    しかしながらその制作過程において、できる限りの努力が注がれていれば、その作品も作者も決して貶めるべきではありません。


     
    本館正面                  同側面
                                         渡り廊下にはキュビズムの影響あり。


     
    同内部                  同中央天井


    レーモンドはその初期の時代、手本としたものの手法を隠さずに、かなりストレートに表現した建築家といえましょう。



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