三鷹電車庫の跨線橋(4・続、太宰文学散歩)

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    最後は玉川上水です。

    玉川上水は江戸時代初期、17世紀中頃に造られた素掘りの用水路で
    多摩川上流の羽村から江戸の四ツ谷大木戸まで約43キロにわたって
    流れていました。

    工期はわずか8ヶ月、羽村分水地点からの高低差も92mしか
    ありません。当時の測量技術の高さを物語っています。
    武蔵野大地の分水嶺;尾根筋を巧みにたどりながら、水は四ッ谷まで
    至っています。

    近代に入っても浄水として使われ、昭和40年代に、淀橋浄水場
    (現在の新宿副都心)が廃止されるまで、その水は使われていました。




    淀橋浄水場跡地:新宿副都心


    現在も、羽村から小平監視所までは使用されています。




    西武線玉川上水駅付近の流れ この下流で東村山浄水場に水は送られる


    廃止後、高井戸から先はほとんど暗渠となってしまいましたが、
    その上流に残された部分には、昭和61年から清流復活と称して
    下水処理水が流されています。

    写真は三鷹駅南口付近の現在の流れの様子です。




    三鷹橋から下流を見る わずかに水の流れも見える

    上水は現在国の史跡に指定されています



    玉川上水は千川、品川、三田などの用水路に分水されても
    豊富な水量を誇っていました。

    その水面下は丸くえぐられ、そこをうねるように水が流れているので
    一度落ちると浮き上がれない「人食い川」と、下連雀や井の頭地域で
    人々から呼ばれていました。


    この「人食い川」という呼び名は太宰も『乞食学生』という小説に
    書いています。

    上水が三鷹駅から井の頭公園に向かう側道沿いにポケットパークが
    あり、この『乞食学生』の一節と、上水沿いに佇む太宰の写真が
    転写されたプレートが立てられています。


     

    ポケットパークとその説明版  入水地点はこの先にある

    また、この小説でも触れられていますが、
    上水が吉祥寺通りと交差する万助橋を過ぎ、
    井の頭公園内に入ったところに、松本訓導殉難の碑があります。




     

    殉難碑とその説明板

    訓導とは戦前の小学校教諭の呼び名です。
    この碑は大正九年(1920)からここに立っています。
    なので、当然太宰もこれを見て、小説でとりあげているのでしょう。




    で、
    元に戻り、三鷹駅南口から東南東へと流れる上水をたどり、
    前述ポケットパークのもう少し下流が、太宰の入水地点とされている
    場所です。(地図参照)




    入水地点の玉川上水現状

    現在、その場所を示すものとして側道の反対側歩道脇に
    太宰の出身地で産した石が置かれています。


     

    その石は「玉鹿石 : ぎょっかせき」というのだそうで、
    北津軽郡金木町で取れたものだと説明があります。

    石の向こう側に見える上水のほとりが、愛人山崎富栄とともに
    身を投げた場所ということなのでしょう。


    三鷹図書館が編集した、「三鷹文学散歩」という本があります。




    これによると、この場所あたりに太宰はよく来ていたらしい。
    そこには堰があって、水量豊富な上水の水が音を立てて堰を越え
    滝となって流れていたとのことです。

    近所では「どうどう滝」と呼ばれていたとあります。



    入水地点近くに残る堰  コンクリート製だが上水が流れていた時のものであろう

    太宰はこの滝を人にも見せたのだそうです。

    あるいは、上水に身を投げようと思った時に
    この堰と滝が頭に浮かんだかもしれません。



    太宰の水死体が発見されたのは昭和23年6月19日。
    発見されたのは入水場所から約1km下流の牟礼新橋を
    越えたところです。

    この牟礼新橋の下流から、しばらく玉川上水は蛇行し流れています。
    この牟礼地区では、神田川と仙川の分水嶺である土地の
    稜線をたどりながら上水は掘り進められました。




    牟礼新橋に至る道 坂の頂点が新橋   地域の稜線であることがわかる

    この牟礼新橋の先で、上水は直角に近いぐらいに曲がります。
    このカーブと新橋のあたりで、水死体がよく発見されたと、
    近隣に住む昔の人は話していました。


     

    現在の牟礼新橋  最近掛け替えられた    橋の先で流路が急に曲がっているのがわかる


    上記「三鷹文学散歩」によると、
    太宰の水死体は富栄と共に発見されたが、すぐに柩に納められ
    霊柩車で運ばれて行ったものの、富栄の方はコモも被されず放置され、
    傍らに彼女の父親が独り立ちつくしていた。とあります。

    太宰関係者は山崎富栄を憎悪していたようです。


    最後に跨線橋に立つ太宰です。


      

    隣はやはり太宰文学サロンで行った展示会の図録です。

    三鷹駅の東側にあった、八丁踏切というところに立つ写真です。




    南面しているので、線路の北、武蔵野市側に立っています。
    道路はまだ舗装されていません。

    両方の写真ともトレードマークとも言える二重廻しを羽織っています。

    図録の写真の説明では跨線橋のものは昭和22年とあり、
    踏切の方は昭和23年(入水の年)とあります。

    しかし、左の没後60年展の本文によると昭和23年に
    太宰の提案で三鷹駅周辺において写真を撮り、
    本人の希望で跨線橋にも行ったとあります。

    双方の写真の姿はマフラーや髪の毛の長さも含め同じなので、
    おそらく同日の撮影なのではないかと推察します。
     


    この疑問を文学サロンの人に聞いてみたところ、
    結局よくわからないとのことでした。
    というのも、ちくま学芸文庫の「図説 太宰治」でも
    跨線橋の写真は昭和22年となっているとのこと。




     いずれにしても、跨線橋は鉄道だけでなく地域にとっても
    貴重な遺産であることは間違いありません。


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