Mission1 出窓部分の改善
出窓を撤去してみると構造上重要な建物角が大きく口を開け、柱が1本だけ建っている状態で、いかにも心もとないことがわかります。
右・出窓上部、左・下部
柱が1本建っているだけで、角部分を維持していた。2階も同じ状態。
まず中央(半間のところ)に柱を建て、接合部は金物で補強し(各Missionの挿入柱共通)、そこにスジカイもタスキ掛けに挿入します。
柱を設置;スジカイは仮設補強のもの
スジカイ取り付け
スジカイは9cm×4.5cmの材を使用し、端部は金物でしっかりと固定します(各Missionのスジカイ共通)。
スジカイ端部の金物 柱、梁に固定する
これもすべてのMission共通ですが土台など部材が腐食していないことも確認します。
これでこの部分はしっかりと耐震壁が形成されたことになります。
Mission2 西側張出し部分の改善
この張出した部分を撤去すると1階で外壁を支える壁がほとんどなく柱が1本あるだけで、図面でわかる以上に不安定であることがわかります。
あまりのスカスカ状態に呆然
また、古い住宅ではよくあることなのか、桁も細い材料が使われています。
そこでまずその細い桁を補強し、それから柱を挿入します。
柱を設置;スジカイは仮補強のもの
そしてスジカイを入れ、しっかりとした耐震性のある外壁とします。
一部桁に部材を付加し、スジカイを挿入(枠は窓用下地枠)
Mission3 1階南下屋部分御補強
ここは2階の外壁が載る構造的重要なラインです。そのためか桁は太いものを使用していましたが、前記のように柱が数本あるだけで2階の荷重を持たせていました。
また、1ヶ所あった壁もスジカイは入っていませんでした。今回しっかり補強する必要があります。
まず基礎を入れることから始めます。
基礎コンクリート打設中
基礎コンクリート打設後、土台を新たに入れ(基礎とアンカーで固定)、柱とスジカイを挿入して耐震壁を造ります。
基礎上に土台を設置し、柱を建てる;床根太も取り付けた状態
スジカイ挿入;個室を仕切っていた既存柱間にもスジカイ挿入
既存の壁にもスジカイを入れて耐震性を高めます。
新たに設置した柱は金物で固定します。
これで、2階外壁及びその他の荷重をしっかりと支持させます。
このラインと直交する南北の筋にも基礎を入れ、基礎全体を補強するとともに、あらたに入れたスジカイで耐震壁を形成します。
下屋と直交する部屋境の壁だったところ;土台は束に載っていて基礎がない
コンクリート打設後、床を造ると同時に既存柱にスジカイ設置
Mission4 段差の梁の支持
2階の段差を支えていた大梁は改修後も重要な構造部材なのでこれも柱を入れて支持します。
梁の下に柱を挿入;その後両脇にスジカイを設置して耐震壁とする
柱の下にはもちろん基礎を挿入します。
右側が新たに入れた支持柱
Mission5 2階北側張出し部分の補強
1、2階北側に張出した部分、壁の出入を整理(一部撤去)した上、一部残した2階の張出し部分は柱+壁でしっかりと支え補強します。
壁の出入を整理;突き出した部分の撤去中
当然のことながら柱の下には基礎と土台を新たに設置します。
基礎を打設し、土台を設置 支持柱を挿入
補強横桟を入れ、支持壁を形成する
Mission6
最後に、既存の壁でスジカイの必要なところには新たにスジカイを挿入し、既存柱の上下や、既存のスジカイにも補強金物を取り付けます。
既存柱間へのスジカイ(+金物付け) 既存柱への補強金物取り付け
また、既存の土台には一応基礎とのアンカーが設置されていること、基礎にも一応鉄筋が入っていることも確認します。
既存の土台基礎アンカー
それに加えて、屋根と軒の耐風性を高めるために桁上部の垂木にも補強
金物を取付けます。
垂木への補強金物取付け
以上で、耐震補強工事完了です。
補強工事を施した1階平面図 挿入柱は主に2階を支える位置に入っている
工事前不安定であった部分は耐震壁が入り、柱や梁などの接合部にも金物を入れ補強したので、耐震性はしっかりアップしたと考えてよいでしょう。
(その後外壁や特に軒先などを不燃材で覆い、窓ガラスも延焼の恐れのある部分には網入りガラスをいれて、安全性をさらに高めていきます)
完成した姿は
http://terui.biz/work_ino201212/index.html
にてご覧下さい。
まず弱点1:出窓。
建物隅の重要な場所であるので1,2階とも出窓は撤去し、耐震壁を設置します。(Mission1)
弱点2:西側外壁からの張出し。
張出した部分を撤去し、外壁をしっかりと形成し(一部に窓を付けますが)、耐震壁形成します。(Mission2)
弱点3:2階南壁がしっかり支えられていない。
まず基礎がないので、基礎を設置 その後、耐震壁形成
東端で、直交するラインにも基礎、耐震壁を入れる
1階下屋内部にある2階南外壁のライン下に新たに耐震壁を設置。
この場合基礎がないので基礎も挿入し、耐震壁用の土台、柱も新たに設置します。
また、この部分東端で直交する南北のラインにも基礎がなかったので基礎を入れそこにも耐震壁を一部設置(一部プラン変更)。(Mission3)
→耐震壁の考え方については「木造住宅の耐震補強 Ver.1」をご参考ください。
弱点4:2階段差の梁の支持と固定。
2階の段差を解消(バリアフリー化)するとともに、この梁を支える柱を1階に設置。(Mission4)
弱点5:2階北側の不安定な張出し。
北側2階の張出した部分、幅を小さくして、同時に1階の北面に出張った部分も撤去し、プランを整理して、一体の外壁(耐震壁)を形成させます。
この張出し部分は壁を造って支持。支持壁の下には基礎も設置します。
(Mission5)
最後に既存の壁にスジカイを追加し、もとあるスジカイや柱には補強金物を付加します。(Mission6)
まずはその住宅の概要。
木造2階建て。竣工は1978年で築34年になります。
外部はモルタル塗り吹付塗装仕上げ、屋根は窯業系スレート葺き(いわゆるコロニアル葺)の住宅です。
ということで、そのプランを見てみます。
1階平面図 南に個室を配し北側に水まわり関係室がある
2階平面図 南に居間、一段上がって和室、北西にダイニングキッチン
平面計画は一般的な木造住宅に見られるように、3尺ピッチのグリットの上に柱が建って計画されています。
多少変わっているところは1階がプライベートスペース:個室があり、2階に食堂、居間といったパブリックスペースがあるところでしょうか。
全体を眺めてみて気付くところは2階が広々としているのですが、その分壁が少ないということです。
これがもし1階でこのようなプランであれば大地震でもたないと思いますが、2階は屋根が載っているだけなので、このぐらいオープンでも小地震には耐えたものと思われます。
もう少し詳細に平面を見ていきます。
1階は個室があるので壁も相応に入っていますが、問題点が2箇所あります。
まず、東南角の出窓。
建物角面を出窓などの開口とすると明るく軽快な印象になるのですが、その分耐震上重要な建物角に壁:耐震壁がとれないので角の柱一本のみに負担がかかってくることになります。
今回の場合では窓の幅が東西、南北共に1間(約1.8m)もあり、2階も同位置に出窓があるため、上下でこの部分が弱点であることは明らかです。(構造的弱点1)
もう一箇所は西側の張出した部分。
これはその隣の壁のラインが建物屋根までの壁面(外壁)で、そこからずらして飛び出しているのですが、結局重要な外壁面が大きく口をあけた形となっています(そこに耐震壁が存在しない状態)。
1本だけ柱が建っていますが、地震時には当然大きく負荷がかかり、破断すると西側外壁面が崩壊する恐れがあります。(弱点2)
次にもう少し詳細に問題点を見ていくことにします。
そのためには上下のプランを重ねてみて検討していきます。
すると上下で壁の位置がずれている部分が明確になります。
もちろん上下階で柱や壁がずれていることはプラン上おこることなのですが、そのズレによる荷重が1階の柱や梁のどこかに載り、そのまま合理的に基礎:地盤まで伝わっていればそれほど問題はありません。
良くないのは2階の壁や柱のズレが1階の梁や桁などの横材に載っただけのもので、その荷重が横材の強度にのみに依存し、大きな負担を生じている場合です。
まず南側。
日本の住居では南側に大きな開口をとり日光や通風を確保して、縁側(下屋とも言う)を張出した形にすることがよくあります。
今回の住宅でも断面を見ると、南側に下屋を半間出し、開口を設けているのがわかります。
そうすると2階の外壁面(及び上部の屋根)を支えているのは下のラインの4本の柱と部屋壁上の梁、東端半間の壁だけということになります。
また、このラインには基礎も入っていないことが事前の調査で判明しました。
従って、2階南の外壁及び上部の屋根荷重は、ほとんどがその下の桁に負担をかけていて、それを数本の柱と真ん中の梁だけで支持している状態となっています。(弱点3)
また、2階には床の段差があり、その段差の部分には梁が入っているのですが、その段差を支える梁を支持する柱が1階にはありません。
上記の下屋の桁と廊下の梁に載っている状況です。(弱点4)
次に北側をみます。
このあたりのプランはまとまりがなく、行き当たりばったりであることは図面からも見て取れるのですが(要するにヘタなのです)、こういうのは構造的にも問題がある場合が多いものです。
で、よく見ていくと、北西部分の2階は1階より2尺ほどとび出しています。
この部分、出窓まであるためそれなりの荷重がかかっていますが、西端では下階で支持する柱がなく、東は一部が1階の梁に載せてあるだけで、如何にもバランスが悪く、不安定な造りです。(弱点5)
以上がこの建物の構造的問題点:弱点で、これを修正するのが急務となります。
これとは別に、実際の工事において既存の壁にスジカイが入れられているかなどの状況もチェックしていきます。
さて、多磨霊園の墓では、扉がつけられ、おそらく中部に遺骨を収納していると思われる墓石が見られます。これを仮に納骨堂型と分類します。この形式が結構多く、神殿のスタイルを取入れたものやモダンなものまで数種に細別できます。
以下それぞれ見ていくことにします。
納骨堂+墳墓型。
(3)でも取り上げた墳墓型ですが、納骨する空間を台にして、上部に墳丘を模した立体を載せたもの。
墳丘を模したドームの下部はやはりシンメトリーにつくられています。
上部の曲面などコンクリート系で作ったものは、雨に洗われて黒ずんでいます。やはり石は年月に打ち勝つ素材であることがわかります。
納骨堂+霊廟型。
神社風、仏殿風、単純な切妻屋根から唐破風形式の曲線屋根までいろいろとそろっています。中には小堂というよりも建築物となっているものもあります。
切妻型反屋根を持つ神社風
唐破風相輪付き仏塔風 切妻型の始原的形体;大谷石製
ほとんど建築物。右のものは築地本願寺の影響と思われます(真宗?)
納骨堂+ギリシャ神殿型。
納骨空間の上部や前面にギリシャ神殿のモチーフが取り付けられたもの。屋根に墳丘が載っているものもあります。
ドリス式柱頭やエンタブラチュアのようなモチーフ
古典的要素を取り入れながら門型に
ギリシャ神殿+唐破風の和洋折衷型
屋根にもしっかりと手が加わっています
納骨堂+ヴォールト型。
納骨空間の屋根をヴォールトというカカマボコ型屋根として、正面にそのアーチを見せたもの。
結構多く見られる形です。雨仕舞がよいのかもしれません。
ヴォールト下部両端に古典的付柱を設けることが多いようです。
納骨堂+表現主義ドーム型。
これも多く見られるスタイルで様式の分類が難しいのですが、上部にドームを乗せ、正面を曲線や古典風の門型にデザインした、20世紀初期の表現主義建築風なもの。
ゲーテアヌム 1928 シュタイナー設計 建築学会編「近代建築図集」より
表現主義建築・第一次大戦後主にドイツで起こった、幻想的で自由な曲線などを用いた建築様式。日本でも関東大震災後の復興建築に用いられた。
屋根には大概ドームが載っているので、上記墳墓型の類型と考えることも出来ますが、前面が切り落とされた形なので、アーチ型があらわれ、そこに何らかのデザインが施されています。
納骨堂+モダニズム型。
装飾を廃し、幾何学的な立体で構成された、モダニズム建築の手法を取り入れた形体のもの。
少し古典的要素を持った硬く堅実な表現
灯篭までもモダニズム 徹底してモダニズム
その他の納骨堂型。
上記の形式を混用したものやその他の形。
モダニズム+墳墓形式 神殿風+モダニズム
とんがり屋根がなんとなくゴシック調。
さて、最後に墓地のイメージから突抜けた興味深いものの例を紹介します(おそらく広い敷地内には他にもあるはずですが)。
上記モダニズム型ですがその巨大な例。3m以上の高さがあると思われます。
これも2m以上の高さがあります。
本体は長年の風雨に晒されていますが、それをむしろ逆手に取り、前面献花台を現代の工業製品:ガラスやスチールなどで作り対比させて、時間の蓄積を表現した心憎い演出と見ました。
球体の墓石も多く存在しますが、これはさらに上部に方形の盤を乗せています。盤の端部は直角ではなく斜めにカットされています。抽象彫刻のようでもあります。
ご存知の通りピラミッドも墓ですが、エジプトだけでなく古代ローマでも墓石として採用することがありました。エジプト〜ローマ〜多磨へとはるばるやって来たことになります。
18世紀の著名な版画家ピラネージが描いたローマ、ガイウス・ケスティウスの墓(BC.12頃)
おそらく内部に墓があるのだと思いますが、それを木造の覆屋でかこった例。覆堂は平泉の中尊寺金色堂、宇治上神社など実例があります。
自らの眠る墓の隣に、生前の姿を永遠にとどめているようです。墓石のデザインと同様ダンディーであります。
多磨霊園は著名人が多く眠っているので、それらを訪ね歩く人も多いと思いますが、本編では墓石などのデザインを純粋にあれこれ鑑賞いたしました。
各墓地の区画は園内道路沿いでは大きく、奥に入るに従って小区画になっていきます。
一般に我々がイメージする墓とは立方体の石を上部になるほど細くなるように数段重ねたものですが、園路沿いの大区画墓所には当時の有力者の墓も多いためか、いろいろな形体をしたものがあります。
墓石の一般的な形
墓所は人々が葬られている場で、ゆかりの現世人が故人を偲んで参る場所でもあります。
墓石は埋葬者の生前の事績を表現することもあれば、訪れる人々になにかのメッセージを伝えるためにデザインされることもあります。
東京都公園協会のサイト、TOKYO霊園散歩では、霊園を都民の共有財産で歴史的資源としてもとらえ、節度を持って墓園を巡ることも進めています。
今回はその趣旨に従う形で、多磨霊園の墓所及び墓石の優れた意匠を鑑賞してみました。
ここで取上げたものはあくまでも当方の主観で選んだもので、おそらく墓地所有者の意向をくんで趣向を凝らした比較的古そうなものとしました。
形に人の作為が加わったものを選び、自然石の墓石は取り上げていません。
また、墓所内に立入らないよう園路からながめ、写真もそこから撮っています。埋葬者の名前などが明確にならないよう刻まれた文字は修正処理をしています。
では、それらをこれも勝手に形式によって分類しながら見ていきます。
まず墳墓型。
日本の古墳も土を盛り上げた墳墓ですが、墳丘を石で覆ったものもあったようです。それを模したような形。鳥居があるものはあたかも貴人の陵墓のようです。
また、墳丘に当たるところを植栽で覆ったものもあります。
ローマの皇帝ハドリアヌスの墓も同じような円形構造物に盛土植栽がなされていました。
ローマ、ハドリアヌス帝廟復元図 建築学会西洋建築史図集より
テベレ川沿いにあり現在はバチカンの聖天使城に改修されている
ローマ人は日本と同じく多神教で、種々の形の構造物を墓として建てていました。人の営みには共通点があります。
次に宝塔型。
日光 徳川家康廟
それほど古そうものではありませんが、歴代徳川将軍の墓のような宝塔型:釣鐘型の胴に反った屋根をつけた墓石の形体。
宗教を体現した形。
キリスト教や仏教に見られる造形を取入れ、宗教がそれとすぐにわかるような墓石です。いろいろな形があります。
まずはキリスト教系
ゴシック教会堂にみられる天にのびる意匠を取り入れた墓石。
なかなか良いデザインだと思いますが、ヨーロッパにこういうスタイルがあるのでしょうか。
ゴシック教会堂の例
シャルトル大聖堂(13世紀) ミラノ大聖堂(19世紀完成)
ゴシック教会堂は天へと伸びるような意匠装飾を持ち、正面に塔を2つ建てる
双塔形式や、中央を尖らせた尖りアーチを使う
左は小ぶりな品のある墓石ですが、両脇に松ノ木が立っていて教会堂正面の双塔を隠喩しているようにも見えます。
右は幾何学的な納骨堂形式ですが気品ある姿です。
仏教系。
日本人はほとんどが仏教なので、墓も一般的に仏教ということになります。その中での1例。
霊園内には五輪の塔や宝篋印塔が建てられた墓所がたくさんあるのですが、これは宝篋印塔と仲良く並んでいのもので、左側の墓石の形:上部を絞った胴に相輪を頂いたスタイルがなかなか良い感じです。
相輪:寺院の五重塔などの上部に取付けられた金属製の装飾
モダニズム型墓石。
20世紀に起こった、装飾をせず幾何学的形体のみで美を表現する形式です。
幾何学的ながら古典的要素も残した例
幾何学的立体の組み合わせで出来ている例。
右側のシンメトリー状に壇が重ねられているものは、ピラミッドを想起させるのか如何にもお墓という感じがします。
上記とは別に、多磨霊園では一つの広い墓地区画を共同墓地としているものもあります。その中の一例で無縁墓地の墓石(墓石と呼んでよいのでしょう)。
昭和4年とあるので戦前のもの。中央にゴシック教会堂の出入口を模した銘文を掲げる凹みが設けられています。ゴシック調なのでキリスト教系かとも思いますが脇に卒塔婆が立てられています。
これもその横の無縁墓地のもの。おそらく戦前のもので、当時一部で流行したライト(建築家フランク・ロイド・ライト:当ブログ「川越洋館列伝(2)参照)風を取り入れてなかなかの出来栄えに思います。
(4)へ続く。
脚部は円形基壇の上に建ち、その階段は八角の各点に対応して放射される石の小隔壁によって分割されています。
塔の足元と基壇
段は煉瓦ながら施釉されたおそらく塩焼き煉瓦で、これもその当時のものと思われます。
高さは15mあるとのこと。
この塔の意匠は明らかにアールデコ様式です。
パリのアールデコ博覧会が催されたのが1925(大正14)年でちょうどその5年後にあたり、その影響を大きく受けたものと考えられます(ちなみに現在の東京都庭園美術館:旧朝香宮邸の竣工は昭和8年)。
・アールデコ
1925年にパリで開催された「現代装飾産業芸術国際博覧会」通称アールデコ博覧会を機に、パリやアメリカの商業建築や豪華客船高原品などに広まったスタイル。左右対称、幾何学的形体や流線型、ジグザグ文様などが主な特徴。素材もガラスや金属、漆調塗装などを使う。
日本では旧朝香宮邸が秀逸な例。
アールデコ展のボンマルシェ館 旧朝香宮邸インテリア
設計者は東京市の技術者かと想像しますが、あるいは井上清かもしれません。東京都に資料が残されていれば明らかとなりますが、現状では当方不案内です。いずれにしても確かなデザイン力の持ち主といってよいでしょう。
内部に入ると水盤:噴水があり、台座は8本の鋭角柱を束ねた形で、これもアールデコ調の優れたデザインです。残念ながら現在水は出ていません。
内部の噴水詳細
内部天井はドーム型に造られています。
天井見上げ
このように当時のアールデコ建築の良品としてよいと思います。
築80年ですが、塗装など修復していて一応の手入れがなされているようです。
これとは別の塔も存在します。
一つはある墓地区画の中央部分に残された小塔です。
高さは4m位でしょうか。これもおそらくコンクリートで、仕上げは化粧モルタルが施されたX型平面の塔です。
塔の下部では、中心部分の柱から立方体が突き出し、その上部に錆びたパイプが取付けられているので、これも噴水塔だったのでしょうか。あるいは墓参者のための給水施設かもわかりません。
但し、排水口が見あたらないので、どのように使っていたかは不明です。
脚部詳細 突出した部分上面に鉄パイプが取り付けられている
広い円形基盤の上に建ち、X字の四隅先端部分は頂点を尖らせて、高さへの意思を表現し、頂部にはアールデコ調の棟飾りが取り付けられているなど設計者の技量を感じます。
また、前述の給水部分と考えられる立方体は前面をV字型にへこませるなど細部にもこだわったデザインがなされた、モダンな造形物です。
現在は放置されているようですが、結構古そうで、一見に値します。もし戦前のものであるならば、名誉霊域の噴水塔にもおとらない貴重な近代遺産です。
これと同じ趣向でデザインされた給水施設も数点存在します。
いずれも使われず放置されていますが、おそらくコンクリート、化粧モルタル仕上げで、作られた時期も古そうで戦前までさかのぼるかもしれません。
一つは高さ5尺ほどの十字型のもので、上部に開口をとり、そこに円形水盤が取付いています。
そこから四方に水が落ちていたようで、その水跳ねを考慮したのか腰には小型の方形タイルが貼られています。
十字型立方体の各先端面はV字にへこませた意匠となっていて細部にも気をくばっています。
別のものは、二重の円形基壇の上に取付けられた円形水盤で、これも十字型の立体が支えています。
この十字は基壇に直接乗らず中心の一点で接するようにデザインされ、各先端面もV字型に削られていて、前述給水施設と同じ手法をとっています。
ほかに、8角形の水場もありました。
基壇となる部分は矩形の敷石を十字型に配した(おそらく使用者の立ち位置)しゃれたデザインで、本体上部にはコの字型を重ねた意匠のタイルを上下貼り違えた帯状装飾が施されています。
これらは当方が確認できたものですが、広大な敷地なので他にも存在するかもしれません。
いずれも放置された状態ですが、どれも良質のデザインがなされたもので、保存措置がなされるとよいのですが。
また、塔としては、北門(小金井門)広場の中央庭園内にも建っています。
小金井門広場の塔全景
これも前述給水施設と同種の十字型平面を形成しその先端面もV字型にへこませた同じデザイン手法がとられています(設計者が同人物か)。また連続して空けられた四角い穴には透かしの装飾が嵌込まれています。
この塔は北門の広場のシンボルとして大切に扱われているようです。
現在白く美装されていますが、これも古いものなのでしょうか、そのあたりはよくわかりません。
この広場には古そうな水場が残っていました。
中央の水場を、連窓を持つ壁で三方囲い、1段あがった床は古そうなクリンカータイル貼りとしています。
給水口は3箇所あり、それぞれが立方体で壁面から飛び出したモダンな意匠です。中央部分の給水口は壊れていますが両側給水口が改造されて現在も使用されています。
このように多磨霊園はその計画の近代性だけではなく、モダン意匠の造形物も残されていて、それらを鑑賞しながら散策することも出来る場所でもあるのです。
ここに霊園が開かれたのは、江戸が東京となった明治以降、都市としての状況が大きく変わったことによります。
江戸時代には、人々はいずれかの寺院の檀家となっていたので、旗本も庶民も寺の墓地に葬られていました。が、明治になってこの菩提寺制度が廃され、おまけに多くの人が流入してきたため、当時の東京市は墓苑を開いて埋葬地を確保することになったのでした。
以下多磨霊園の概要は都立霊園のサイトのほかに、主に村越知世著「多磨霊園」東京公園文庫(2002版)によります。
さて、上記の理由で市は、谷中、雑司ヶ谷、染井、青山の各霊園を明治初期に開園しましたが、大正時代になってさらなる需要にこたえるため、大規模な墓苑地を郊外に求めることとなりました。
その計画は大正8年頃からが始まり、用地は現在の府中、小金井両市内にあった旧多磨村に選定されました。
この地がえらばれた理由として、人家のほとんどない広大な農地であったことが大きかったのですが、同時に甲州街道から近く、また京王線や、西武多摩川線の駅が近くにあり、交通の便も考慮したとのことです。
敷地全体を当時の欧州にみられた林地や公園と墓苑とを合体させた「公園墓地」とすることになり、これが日本最初の都市計画共同墓地になったのでした。
欧州の公園墓地の例
映画「第三の男」で知られるウィーン中央墓地
この計画を主に進めたのが東京市の公園課技術掛長でのちの公園課長:井下清という人物で、霊園の整然とした全体計画から細部までがおそらく彼の手になったと思われます。
この人は優れたランドスケープデザイナーであったようで、現在でもこの霊園が良好な環境を有しているのは、多くが彼の功績と考えてよいのでしょう。
その配置プランを見てみると、縦横約1.2kmの5角形をなす敷地に格子状に園路を割付け、全体の軸を東に少し振りながら縦4列、横は5列とし、そのまわりを周回路がまわっています。
現在の多磨霊園配置図 都公園協会HPの図に加筆
西に付出た地域があるのは昭和14年に拡張された部分です。この地域は浅間神社のある丘と接していますが、当初はなく、元は周回路で囲まれた下すぼみの矩形の地域でした。
上図は昭和10年代の航空写真ですが、当初のプランを示しています。
小金井門もあり、そこから参道が伸びているのもわかります。
周回路の円弧が南できつくなるのは、敷地の形状によることがわかります。
格子状主要道路の交点の多くは円形にデザインされ、緑地帯や偉人を顕彰する石碑などが設置されています。
南北の筋、東から2番目がメインで、名誉霊域(後述)と呼ばれる地域があり、南端の正門に続いています。
正門詳細 左両脇門柱、右中央部分 古そうだが当初の構造物かは不明
正門から南は開園当初から甲州街道までの参道が設置され、道の両側には桜の木が植えられ、今もその景観は残っています。
甲州街道への参道と桜並木
正門前は大きな円形広場になっていて、現在では管理事務所や納骨堂(みたま堂)合葬式墓地があります。
この広場からは北西へ放射状に道路が延び、西端で周遊路に交わっています。
なぜこの部分だけ放射道路を設置したのか不明ですが、当初この交点の先に何か施設を計画していたのか、あるいは単に西側に敷地を拡張したときの近道として造っただけかもしれません。
西に拡張して出来た現在の西門 西側地域の接する浅間山
また、開園後しばらくしてから敷地北西隅に北門(現・小金井門)を開き、ここからも参道を設けて現在の小金井街道に接続させました。
小金井門とその門柱(右) なんとなく古そうで当初のものか
正門より意欲的なデザインで、表現主義風にできている
この道は中央線武蔵小金井駅への便をはかったもので、桜も植えたとの事ですが、現在並木は残っていません。
小金井までの参道
この北門前も楕円形の広場を設け、今は芝生の小公園となっています。
小金井門越にみる広場
園内は多くの樹木が植えられ緑豊かな空間になっていますが、当初からあった赤松などの樹木はすべて保存し、さらに、園路沿いや交点などの小広場に植樹をおこなって、修景につとめたようで、文字通り公園墓地の景観をよく示しています。
全体の配置を見ると格子状の園路は東西に4枡あるので、中心の通り(:現バス通り)を主要な南北大路として、左右対称の厳正な配置としてもよさそうなのですが、その東隣の筋がメインの園路となり、南端に正門を開けています。
中央の筋をそのまま南へ伸ばし、正門、参道、甲州道、駅へと導くことに支障はなかったように思えますが、買収前の原野に何か事情があったのでしょうか。そのあたりのところは当方には不明です。
この中心路の北端は現在東八道路からの入口になっていて、路線バスもここから入園します。
東八道路からの入口(運転免許試験場前あたり)
また南端も一般道への出入口があるので自動車が頻繁に通っています。おそらく東八道路から、甲州街道への抜け道になっている模様です。
さて、前述の正門から北上する園路は、道路中央と両側に緑地帯を設け公園墓地はかくやあるべきとの景観をなしています。
中心の園路:名誉霊域
おそらく本計画上最も力を入れたところでありましょう。ここは名誉霊域と呼ばれる地域で国家の功労者が埋葬される場となっています。
ただ、現在ここに眠っているのは日本海海戦の英雄東郷平八郎と、太平洋戦争時の連合艦隊司令長官山本五十六、古賀峯一の3人だけです。
東郷平八郎がここに埋葬されたのは東京市自ら誘致した結果でありました。
東郷平八郎 弘化4(1847)〜昭和9(1934) 東郷神社サイトより
現在、この地に公共交通を利用していく場合は、西武多摩川線の多磨駅か、京王線の多磨霊園駅から徒歩で行くか、中央線武蔵小金井駅からバスを利用することになります。いずれにしても電車で都心からは小一時間はかかる距離にあります。
今でもこのぐらい時間がかかるので、開園当時はそうとう遠かったであろうことは想像に難くありません。その頃は武蔵小金井駅も、西武線多磨駅もまだありませんでしたので、京王線の駅から約1.5kmの距離を歩かなくてはなりません。
そのため墓苑では備品の車を使って駅まで有料で送迎をしていたようですが、大きな効果はあげていなかったようです。従って開園後10年を過ぎても市民にとって僻地というイメージは拭えず、埋葬地として応募する人数も今ひとつであったとのこと。
ところが昭和9年の5月、軍神とあがめられ世界に名の知られた東郷平八郎が死去しました。
この報に接し当時の東京市長自ら多磨墓地に埋葬されることを海軍省に申し入れ、場所も当然偉大な功労者を埋葬する名誉霊域を提供しました。
東郷家では青山霊園に墓地があったのですがこの請願を受け入れることになり、こうして東郷が名誉霊域埋葬者の第一号になったのでした。
名誉霊域にある東郷平八郎の墓
ここから多磨霊園が市民の間に周知され、東郷元帥と同じ地に我もと応募者が増大したとのことです。
但し、その井の頭道交差点というのが現在のどこに当たるのかよくわかりません。
その位置不明の交差点を北へ折れると、現在の人見街道にどこかで突当たります。そのあたり、現在の牟礼1丁目8番地に道標を兼ねた石碑が建っています。
撮影時道路境界工事中だが、たぶん位置はそのまま
一見して判別しにくいのですが「南無妙法蓮華経」の題目と「右 是より古く帰ん寺道」「左 是よ里 ふちう道」と刻まれていると説明文にあります。
石碑側面 道標になっている
「古く帰ん寺道」というのは、この人見街道を進んだ先で分かれる連雀通りを行くと小金井を過ぎ国分寺へ至るのでそのことを示しているのでしょう。「ふちう道」とはここから人見街道へ入らずに道を戻り、下本宿通りをそのまま進むと前述の通りやがては人見街道と合流して府中に至るのでその意味だと思われます。
こうして人見街道に出た後はまた西へと進み、現在の牟礼交差点で街道と分かれ、井の頭道(現 井の頭公園通り)に入り、ようやく弁財天に至ったようです。
現牟礼交差点 左に行くのが人見街道 斜め右が井の頭道
中央角に供養塔と地蔵が建っている
この街道との分岐点には地蔵と道供養の塔が建っています。
供養塔と地蔵 以前は神明社に移設された燈篭も一緒に建っていた
道供養の塔は文化9(1812)年に建てられた角柱で、文字通り多くの人に踏まれる道を供養しているのです。隣に立つ地蔵は古そうですが年代は不明です。
ここには道標となる燈籠が並んで建っていました。現在近くにある牟礼神明社にそれは移築されています。
移築された燈籠 胴部分の彫刻
幕末嘉永3(1850)年に造られた常夜燈で、牟礼村の巳待講という信仰グループが建てたもの。台石には「巳待講」と彫込まれています。上部には龍の浮き彫りがなされています。
台石の彫込み(道標) 牟礼の鎮守 牟礼神明社
以上が甲州街道から井の頭へ至る、昔の道程とそこに残る石造物です。
当方が現在のところ確認しているものですが他にもあるかもしれません。
牟礼1丁目の石碑の説明看板に江戸時代の付近の地図が掲げられています。それに上記の位置を書き込むと図のようになります。
さて、もう一つの経路、新宿から青梅街道を経由していく方法もあったようで、途中堀の内の妙法寺に寄り、弁財天に至った江戸時代の記録もあるとのことです。
江戸名所図会 妙法寺
その詳細については当方不明でありますが、青梅街道の高円寺から五日市街道を経て、どこかで南下し人見街道に出たものと想像します。
中央線阿佐ヶ谷駅から鎌倉道とよばれる古道が南へ伸びており、青梅、五日市両道を横切り大宮八幡宮に至るので、ここを通った人もいたかもしれません。
今でも八幡宮南の道はそのまま人見街道に続いています。
江戸名所図会 大宮八幡宮
そこから人見街道を西へ進むと神田川を渡ります。そこが現在の久我山駅ですが、その少し手前に街道から東に分かれる道があります。その分岐点に庚申塔が建っています。
庚申塔の建つ分岐点 左が人見街道
八代将軍吉宗の頃享保7(1722)年のもので、道標を兼ねていて、側面に「これよりみぎいのかしら三ち」「これよりひだりふちゅう三ち」と彫込まれています。
左はそのまま人見街道ですが、右の道はカーブしながら神田川の北側台地を西へ伸びていきます。但しその先は、現在住宅街の道になっていて、あちこち曲りながら行けば確かに井の頭までつながっている状態です。昔は畑の中の細道であったのでしょうか。
ここで曲らずさらに街道を進めば、前述の牟礼1丁目、高井戸よりの古道に合流します。その牟礼村の入口(現在の三鷹市との境)で、今度は玉川上水と交差します。
その橋のたもと:東側には欅の木と祠があり小さな庚申塔が納められています。元禄13(1700)年建立との事です
牟礼橋と欅の木、祠
上水側道を拡幅する計画が進んでいて、この景観はなくなるかも
この橋は古くから石の橋であったようで、それを示す石碑が建っています。それには「石橋建立供養の碑」と刻まれ、宝暦7(1757)年の年号があります。側面には橋が寛政9(1797)年と嘉永2(1849)年に架け替えられたことが後に刻字されています。
牟礼橋供養碑 どんどんはし 「右ふちゅうみち」と彫ってある
その横には「どんどんはし」と大きく彫られた道標も並んで建っています。
「どんどん」とは玉川上水の豊富な水勢を地元の子供らが呼び習わした言葉であるとのこと。ちなみに現在の橋の名は牟礼橋です。
現牟礼橋の上流側隣には古い橋が残っています。煉瓦造りのアーチ橋で欄干はコンクリート製。スタイルが洋風なので明治時代以降のものと思います。
残されている古い橋 木々の間から煉瓦のアーチ積みが確認できる
人見街道をこの橋まで来ればすぐ先が甲州道からの参詣路との合流点なのであとは前述の通り、牟礼村を進み井の頭道に至ります。
以上の道程のほかに、弁財天の道標が何点か残っています。
一つは元文5(1740)年のもので、甲州街道調布付近にあったと思われているもの。現在は調布市内の民家に移築されているらしい。
他には吉祥寺の五日市街道と現吉祥寺通りとの十字路に建っていたもので、何度か移された後、元位置の傍、武蔵野八幡宮境内に置かれているもの。
天明10(1785)年の建立で「神田御上水 井の頭辨財天」と彫られた石柱の道標。
八幡境内入口脇に古そうな庚申塔と並んで建っている
最後の一つはやはり吉祥寺通り万助橋付近にあったと伝えられている道標で、明治31(1898)年のもの。現在は小金井の江戸東京たてもの園内に設置されています。
江戸東京たてもの園内
以上、往時の風景とは変わっていますが、いまだ途中途中に当時の痕跡が残されており、公園内の弁財天は言うに及ばず、そこへの古道を訪ね歩くのも(お閑の方)一興ではないでしょうか。
]]>
その霊験はよく知れ渡り、幕末の最盛期には江戸市中や近隣から多くの参詣人が押し寄せたと伝えられています。
ここは江戸の中心日本橋から直線距離でだいたい18?ありますが、当然道はまっすぐではないので往復すると40?ぐらいになるのでしょうか。昔の人の健脚でも途中にコンビニもないわけで、それなりの小旅行であったはず。その経路には今でも道標などが残されています。
さて、かつての弁財天堂舎は火災で失われ、現在のものは昭和3年の再建とのことですが、境内や参道のそこかしこには江戸時代の石造物が残されています。
現在の井の頭弁財天堂(中央) 正面見上げ 色が朱ではなく派手な色に
ということで次からこれら石の作品を見ていきます。
この住宅で採用した連窓や屋上庭園などは、コルビジェの手法から着想を得たものと考えられますが、同時に横広の開口は日本の風土に合わせ通風や日照を確保するため採用した装置ともいえます。
窓詳細 2階窓には可動テントがいまだついているようである
それを示すように、建具は日本の伝統にあわせ引き違いで、それを鉄のサッシで作り、上部には庇も設けられています。
コルビュジェの連窓はあくまでも新しい建築デザインを志向して、窓と壁を連続した一つの面とするシンプルな箱型の外観をもとめたものですが、赤星邸の連窓は我国の風土にあわせ庇を取り付け、壁を平滑な面とはせず陰影をもつ外観となっています。
竣工時にあった2階屈曲部の穴の開いた庇は欠損している
竣工当時の写真を見ると、南側の開口部:庇の下には可動式のテントが取り付けられているのがわかります。
テラスの鉄製パイプも存在している(当初材かは不明)
このテント:オーニングは短い出の庇を補うものとして竣工時から取り付けられていたことは間違いないのですが、これはオーナーの要望によるものなのかは不明です。
赤星邸だけではなく、川崎邸やそれ以前に竣工した東京ゴルフクラブ(1932昭和7年)でも採用されています。
レーモンドは1924に完成させた自邸を、自身はじめての打ち放しコンクリートとしていますが、この赤星邸と同年に竣工した川崎邸が打ち放し仕上げ住宅第2弾であったようです。
現在は白いペイント仕上げがなされていますが、近づいてみると型枠板のあとが残り、打ち放しの痕跡が見て取れます。
壁面詳細;コンクリート打ち放し型枠板の跡が残っている
室内に入ると、コンクリートの彫塑性を生かした曲線階段や、壁面を荷重から開放し、大きな窓を開けることを実現したコンクリートの柱を見ることが出来ます。
階段室の奥に見えるのが玄関
本家コルビュジェ、サヴォア邸の曲線階段
その向こうの窓、横桟も似ている
エントランス部分 曲面階段壁が外側に現れている
北側、エントランス西奥にある箱庭 灯篭もたぶん当初
玄関
庇 ガラスブロックも残っている 先端にはしっかりと水切りがとられている
テラスに面する居間と食堂の開口部は、全面掃き出し窓ですが防犯のために横引きの格子シャッターが取り付けられ、居間と食堂を区切る可動間仕切りも当初から設置されていたようです(現在は当初のものではなさそうですが)。
サッシはアルミサッシに取替えられている
アコーディオン・カーテンのあったところに、もともと可動間仕切りがあった(右が当初)
テラスに付けられていた可動テント用の鉄棒や2階窓のオーニング部材も現存しています(当初のものかは不明)。
この赤星邸や、川崎邸そしてそれ以前に竣工した東京ゴルフクラブは、壁面に装飾が一切なく、屋根もない箱型フラットルーフのいわゆるモダニズム建築で、ドイツのグロピウスなどが提唱したインターナショナルスタイル:国際様式の建築です。
東京ゴルフクラブ 「JA季刊 アントニン・レーモンド」より
ワルター・グロピウス 1883〜1969
建築学会編 「近代建築図集」より
20世紀前半を代表する建築家の1人。ドイツ出身。1910年代に近代建築の先駆的な建築を設計。新時代の美術造形を目指した学校:バウハウスの指導者になり、自ら設計したその校舎や教員住居も近代建築の典型として知られている。第二次大戦前にアメリカに渡り、教育者としても大きな影響を残した。
バウハウス校舎 1926 「ART DECO ARCHITECTURE」より
バウハウス校長住居 1923 「バウハウス展図録」より
おそらくレーモンドはこのスタイルの建築を日本で早くから作り出した建築家の一人でしょう。あるいは本家のコルビジェやグロピウスなどより、竣工させた建物の量は多かったかもしれません。
後年彼はこれらの建物も含んだ詳細図集を出版していますが、それは日本の多様な風土に対抗してモダニズム建築を作り上げたという自信に裏打ちされた行為であったのではと思われます。
我国の戦後の復興期に瞬く間に普及した、箱型モダニズムスタイルの病院や学校、庁舎などは、戦前のこの時期にレーモンドがディテールを試行錯誤しながら作り上げた色々な成果に依っていることは間違いありません。
元来日本の住居では、木造のフレームを用いて開口部を多く設
け、通風を確保し高湿の夏を乗り切ってきました。そのため連続した開口部や、連続して柱の立つ縁などが立面に現れることはさして珍しいことではありません。
連続開口 東福寺 東司 単独窓 パラッツオ・ストロッツイー
しかし煉瓦などブロックを使う中近東やヨーロッパの建物では、壁体が建物の構造体を支えているので、横に連なった開口部を設けることは不可能です。
それを可能にしたのが鉄筋でコンクリートを補強したフレームの構造です。
この鉄筋コンクリートや、工業生産で得られた鉄材の柱梁によって壁を構造から解放し、自由で大きな開口部が得られ、床を中空に上げて列柱で支持するピロティも出来るようになりました。
そして、この連続した開口部:連窓やピロティ、屋上庭園などをデザインに採用した箱型の建物を、この頃手掛けていたのがコルビュジェです。
ル・コルビュジェ 1887〜1965
建築学会編 「近代建築図集」より
スイス生まれのフランスの建築家(画家でもある)。近代建築や都市計画に新しい思想を提唱して各国に影響を与えた。1920年代から自ら提唱した近代建築の五つの要点:ピロティ・屋上庭園・自由な平面・水平連続窓・自由な立面;を具現化した建築を作り出し、戦後は国際的に幅広い活躍をした。日本でも人気が高い。
ヴィラ・ド・モンジー 1927 「GA世界の建築3」より
ヴィラ・サヴォワ 1931
レーモンドはコルビュジェが発表した住宅案を木造で自身の別邸に採用し、これを知ったコルビジェが驚いたことがあるぐらいで、赤星邸などモダニズムスタイルの住居もその影響を受けていることは間違いありません。
旧体育館の北側にあったのが、この地で最初に竣工した学生寮です。
レーモンドの最初の計画では中央の棟を中心として6つの個室棟が配される、これも象徴的な配置でしたが、実現したのは前面の東西二つの棟で、東寮、西寮として長く使用されました。
寮、配置鳥瞰図 「創立90周年記念 東寮・旧体育館写真集」より
西寮は1984年にすでに解体され、東寮と塔をもつ中心棟が残っていましたが、これも先年解体されました。
東寮には竣工年と思われる1922というプレートが付けられていて、この建物が大正11年の竣工で、大震災にも耐えた貴重なコンクリート建築であることを示していました。
竣工年のプレート 「創立90周年記念 東寮・旧体育館写真集」より
その中心棟は厨房などに使用され、中央の煙突は8角形の独特な形をしており、やはりチェコ・キュビズムの手法を表しています。内部にはライト風のデザインも残されていました。
寮中央部 厨房の煙突 キュビズムを採用した特長的形態
四方に延びる予定であった廊下の断面があらわれている
内部 暖炉 「創立90周年記念 東寮・旧体育館写真集」より
スクラッチタイルや欄間の扱いなど、ライト風を引き継いでいる
ライト設計 旧山邑邸 1924 内部 淀川製鋼所 F.L.ライトの世界より
レーモンドの配置図を見ると旧体育館を前面に置き、6方対称にプランニングされた学生寮が奥に控える計画であったことがわかります。体育館の中央部が低く抑えられていたのはこの学生寮の中心を南からも望むことができるような仕掛けのためとも考えられます。
東寮は関東大震災以前であることが明らかなコンクリート建築で、もし残されていたら、重要文化財に指定された可能性があったのでは思われます。
東側の本館などのあるゾーンの北側には、林の中に3棟の住居が点在しています。
これもレーモンドの手になるコンクリートの小品です。
外国人教師館 ライシャワー館
現在、外国人教師館(1924大正13年)、安井記念館(1925大正14年)、ライシャワー館(1927昭和2年)と呼ばれている建物で、中でも外国人教師館は装飾などもろにライトの手法を受け継いでいます。
が、建物としては天才ライトのようなキレはありません。それもそのはず、独立3年後、ほとんど処女作といってよいものです。
外国人教師館 ポーチの装飾
旧帝国ホテル 入口車寄せ ライト回顧展図録より
外国人教師館 幾何学装飾の詳細
しかしながら、レーモンドは渡米後キャス・ギルバートやライトのもとで「修行」していただけあって日本で仕事を始めた初期から、ディテールを納める実力を備えていたことは、残された建物を見てもわかります。
キャス・ギルバート 1859〜1934
20世紀初頭のアメリカの建築家。当時アメリカで賞用された古典:アメリカン・ボザール様式の公共建築を多く設計する。ゴシック様式を取り入れた高層ビル:ウールワース・ビルディングやローマ神殿の形体を用いた最高裁判所の設計者として知られている。
マンハッタンにある、摩天楼の名作ウールワース・ビルディング 1913竣工
レーモンドが在籍当時の建物
同、下層部分詳細 ゴシックの装飾が用いられている
ディテール:細部の設計とは、建物を単なる造形物ではなく、耐候性を長く維持し、快適な使用ができるよう各部分を納めていくもので、それをいかに考え、施工に結び付け、且つ美しくデザインするかという、設計全体において大きなウェイトを占める作業です。
本館や旧体育館などの大きな建築と比較してみると、レーモンド自体、木造のものは別として、細かいデザインを重ねるような小規模の建物よりも、構造美をスカッと表す大建築の方を得意としていたのかもしれません。
最後に女子大通りに面する正門です。
これもおそらくレーモンドのデザインです。現在は少し位置を変えて、守衛室などが新築されていますが、写真はそれ以前のオリジナルな形態をとどめている(と思います)ものです。
オーギュスト・ペレ 1874〜1954 建築学会編「近代建築図集」より
フランス近現代を代表する建築家。エコール・デ・ボザール出身で、19世紀末からコンクリートを用いた近代的な造形の建築を多く生み出した。
パリのフランクリン街アパート(1903)や、ポンテュ街のガレージ(1905)、シャンゼリゼ劇場(1914)などが知られている。第二次大戦後、フランス北西部の都市ル・アーブル再建の主任建築家となり、この地はペレによって再建された都市として世界遺産に登録されている。
フランクリン街のアパート ポンテュ街のガレージ
レーモンドが手本としたル・ランシーのノートルダム教会(1923)は、薄いシェルのコンクリート天井を細身のコンクリート柱で支え、壁面にはプレキャスト・コンクリートの格子窓を取付け、それにステンドグラスを嵌めこむなど、独自の世界を構築しています。正面には独特の意匠を持つ塔が建てられています。
ランシー ノートルダム内部
身廊と側廊の高さを同じくして、コンクリート格子窓のステンドグラスから
光が射す、コンクリートの荘厳な空間
レーモンドが女子大で模倣した、この塔のデザインは彼が基本計画段階で関わった聖路加病院のチャペルの塔にも採用されています。
聖路加病院(同病院HP写真より)
いずれにしてもこのチャペル・講堂と正面奥の旧図書館がこのキャンパスのシンボル的建物であることは明らかで、これら二つの建物は通りからもおおよその形を見ることができます。
但し門を超えて入ってしまうと、警備員さんに誰何されることは間違いないのでくれぐれも注意を要します。
本館の手前、芝庭を挟んで対に建っているのが東校舎(1927 昭和7年)と西校舎(1924 大正13年)です。
東校舎
西校舎
どちらも寄棟屋根で箱型の、ある意味単純な建物ですが、そうなったのは教室が並列するプランによるものといえます。
しかし細部をよく見るとキュビズムの手法が使われているのがわかります。
西校舎入口の幾何学的装飾 壁面にも細かい凹凸が付けられている
また、そのシンプルな構造と寄棟の屋根、庇を出した形体が、雨の多い日本の風土にマッチしていて、西校舎(7号館)などは大正年間のコンクリート建築ですが、今でも普通に使えているのがすばらしいところです。
東校舎南面(妻側) 庇を出した箱型の堅実なデザイン
もしもモダニズムのフラットルーフ箱型建築であったら、ここまでもたなかったかもしれません(耐震補強工事は成されているようですが)。
開口部のスチールサッシも当初のものか不明ですが、結構古そうです。我国近代建築史上、貴重な遺産でもあります。
以下のレーモンドに関する情報は、ほとんどが建築家で建築史家でもある三澤浩先生の著作と先生ご本人から伺ったものです。
建築家レーモンドは1888年・明治21年に現在のチェコ、当時のオーストリア帝国領クラドノに生まれました。
プラハ工科大学を中退後アメリカに渡り、アメリカの国籍を得た後、建築家フランク・ロイド・ライトのもとで所員として働いていたことが縁で、当時ライトが設計していた帝国ホテルの現地担当者として日本にやってきました。
その後ライトのもとを離れ、日本で建築家として活躍し、コンクリートの一般建築から木造の個人住宅まで多くの建物を設計しました。
彼の事務所には日本の現代建築に貢献した前川國男や吉村順三が在籍していたこともよく知られていて、レーモンドが我国のモダニズム建築に与えた影響は技術的にも思想的にも計り知れないとおもわれます。
レーモンドは木造建築では、たとえば軽井沢の聖ポール教会などがよく知られていますが、
軽井沢 聖ポール教会 1930年
なんと言っても、打ち放しを含めたコンクリート建築をおそらく戦前の日本では最も多く作り出した建築家です。(この技術は戦後の日本のコンクリート建築の発展にも多く引き継がれました)
さて、吉祥寺周辺にあるそのコンクリート建築とは、
有名な東京女子大学と、個人邸:旧赤星邸です。
まず、東京女子大学です。
東京女子大学は大正7年の設立で、大正13年に現在の杉並区善福寺(当時豊多摩郡井荻村)に移転してきました。その移転計画からレーモンドはかかわっていたようで、現在でも彼の設計になる戦前築の校舎が数棟残されています。
敷地は、五日市街道の北を走る通り:文字通り「女子大通り」と呼ばれている道路に面しており、北側は善福寺公園となる場所にあります。
周辺は現在閑静な住宅地ですが、おそらく大正期では都内から遠く、結構さびしい場所であったはず。当然周囲に学生用、それも女子向けの下宿などなかったと思われます。そこでキャンパス内に学生寮を建設することから移転事業が開始されました。
このほか教員の住居もつくられ、これは現在でも記念館などに転用され、現存しています。
女子大通りから学内を見ると、まず目に付くのがチャペルの塔と、その奥にある旧図書館(現・本館)です。
チャペル・女子大敷地内から
チャペル・塔 中央線の車窓からも見える
旧図書館、現本館・正面
この二つの建物はレーモンドに影響を与えた二人の建築家のスタイルをそれぞれ伝えています。
その建築家とは20世紀前半を代表する建築家フランク・ロイド・ライトと、近代建築史上重要な位置を占める、フランスを代表する建築家オーギュスト・ペレです。
この建物のうちで、旧図書館がライトの影響下にあることはすぐにわかります。
フランク・ロイド・ライト Frank Lloyd Wright 1867〜1959
20世紀前半を代表するアメリカの建築家。水平線を重視し、地を這うように大地に根ざした形体と、劇的な内部空間を持つ住宅やその他の建築を作り出した。帝国ホテルの設計のために来日し、数件のプロジェクトにも携り一部は後に完成している。 写真はライト回顧展図録より
前述の通りレーモンドはライトのもとで働いており、ライトの帝国ホテルプロジェクトの現地担当となる形で来日しています。
ライト設計の旧帝国ホテル 1923年竣工 同上回顧展図録より
ライトのスタイルを一概に述べしまうと、帝国ホテルでは、左右対称の象徴的なプランニングと、寄棟の屋根と深い軒、縦長に割り付けられた開口部、そして華麗な装飾といったところでしょうか。
加えてスクラッチタイルと大谷石を採用して、独特の世界観を作り上げていました。
帝国ホテルでライトが採用したスクラッチタイルと大谷石の装飾
明石信道「旧帝国ホテルの実證的研究」より
本館:旧図書館は正門を入った軸線上の要の位置にある象徴的な建物で、左右対称の構成、寄棟の屋根、縦長に割り付けた象徴的な開口部、なおかつ中央最上階の隅の部分をへこませたシルエットなどライト風のデザインを受け継いでいます。
女子大本館・正面
ライト設計・ウィリッツ邸 1901 「ライト回顧展図録」より
中央部屋根の形態(寄棟)や、隅の扱いなどが共通している
昭和6年竣工のコンクリート造建築ですが、戦争中は空襲に備えて迷彩塗装が施され、戦後現在のような白亜の外観に塗りなおされています。ということで竣工当初は打ち放しであったのでしょうか、そのあたりは当方今ひとつ定かに出来ません。
レーモンドが来日したのが31歳の時。
それ以前はアメリカのキャス・ギルバートの事務所やヨーロッパで働いていた時期もあったようですが、自ら設計し建物を竣工させたことは、まずなかったと思われます。
いわゆる実作をものにしたのは来日してからと考えて間違いありません。
来日の約1年後(1921:大正10年)には帝国ホテルの仕事を離れて「独立」をするのですが、その前後からなぜか次々と仕事を依頼されています。
東京女子大のプロジェクトはこの頃はじまり、キャンパス計画から各建物の基本的な設計など着手していたと想像出来ます。つまりは建築家のキャリアとして初期の仕事ということです。
建築のみならずどんな表現活動でも「駆け出し」のときは模倣や習作からはじまり、それも先行する他者からの影響から逃れることは、ほんのわずかの天才以外は、不可能といってよいでしょう。
旧帝国ホテル中央部外観「ライト回顧展図録」
女子大本館につながるものがある
レーモンドも例外ではなく、ましてや建築家として接した相手がライトであったこともあり、その強烈な個性からは逃れることは出来なかったのではないでしょうか。
この旧図書館や他の校舎では、外部仕上げにライトの採用したスクラッチタイルや大谷石を使ってはいませんが、全体の構成はその影響下にあり、これにレーモンドが建築を最初に学んだプラハで隆盛していたキュビズムの手法が加えられています。
チェコ・キュビズムの建築
ヨゼフ・ホホール設計 「煌くプラハ」展図録より
ホデック・アパートメント 1914
ヴィシェフラッド3世帯住宅 1914 コヴァジョビッチ邸 1913
キュビズムは学生時代のレーモンドにとって最初に体験した手法の一つであったはずで、このなじみのスタイルを使うことが若き建築家にとって安心な武器となっていたと勝手に想像します。
表現の世界において他者の追随を許さぬような独自のスタイルに到達し、それがその世界で重要な様式の一つになるような体現者は、一時代においてわずか数人のみでありましょう。
その他大勢の人々は神に選ばれた先駆者の手法を学び、模倣しあるいは焼き直しながら「作品」を作り出すほかはありません。
しかしながらその制作過程において、できる限りの努力が注がれていれば、その作品も作者も決して貶めるべきではありません。
本館正面 同側面
渡り廊下にはキュビズムの影響あり。
同内部 同中央天井
レーモンドはその初期の時代、手本としたものの手法を隠さずに、かなりストレートに表現した建築家といえましょう。
中には現在撤去されたものもあります。
成田山入口角にあった洋風3階建て
成田山前の通り、銅板貼り店舗
多くが前述のリソイド掻き落としに類するもので外壁を仕上げています。
パラペットが凝っています
モダン意匠系
看板が無く、下屋がオリジナルならばオシャレだったかも
今度は町の西側を走る街路です。
この通りは狭山市にも通じ、川越市駅付近から中央通りと並走して北上していく道ですが、それなりの街路を形成していて、町屋の中に洋風店舗も混在しています。
まずは旧六軒町郵便局。昭和2年築の木造下見板貼りです。現在はイタリア料理店になっています。
もう少し北にも下見板貼りの建物がありました。たしか病院の建物でしたが、現在はなくなっています。
窓の一つ一つにペディメント(破風)が取り付けられています
このほか洋風店舗が数件ありました。
この通りは町屋や土蔵がいまだに散見されます。
建設会社の本店に付属する建物(2010年撮影)
さて、町の中心部にもどります。
中央通の東側に併走する街路がありますが、前述のように中央通は昭和初期に開通した新しい道で、東に位置するこの道が江戸時代からのものです。
大正2年の市街図「町割から都市計画へ」より
本川越駅から一番街への中央通は未開通、その東側の道が古い
駅付近はだいぶ開発されていますが、北上するにつれて町屋など古い建物がちらほら現れてきます
先ほどの旧16号線(県道)を超えて北に行くと多くの洋風店舗が現れてきます。
この近くには蓮馨寺という古い寺があり、その門前通りであった東西の道(:立門前商店街)をこえると「大正ロマン夢通り」という長い名前の街路になります。
ここにも大正から昭和にかけての洋風店舗が数軒あり、北端には古典主義の建物が鎮座しています。
この建物は現在川越商工会議所になっていますが、もとは旧埼玉銀行の支店であったとのことです。鉄筋コンクリート造、石貼りの古典主義建築で昭和13年築と伝えられています。
壁面にドリス式のジャイアント・オーダー(付け柱)を施した重厚な構成で、上部エンタブラチュアにもドリス式神殿に見られるトリグリフとメトープがしっかりと付加されています。
T字路に面した角面に入口を設け、出入口上部にはバロック風の破風をのせています。
ちなみにドリス式神殿の様式とはこれです。
図:[ARCHITECTURE SOURCEBOOK] Russell Sturgisu より
ドリス式はもっとも力強く、男性的なデザインと言われています。
ギリシャの神殿の様式(オーダーとよぶ)は大別して3種類あり、これがそのままローマ建築にも流用されました。
建築を美しく飾ることにおいて、古代ギリシャ人は長けていて、ローマ建築を経てヨーロッパ古典建築の様式の源流となっています。
ギリシャ神殿の様式図
図:世界の文化史跡 ギリシャの神殿より
日本でも明治維新以来の洋風建築に取り入れられ、特に権威のある建物などに採用されました。今は多くが撤去されてしまいましたが、地方の銀行建築などにもこの古典様式の建物が多く見られました。
この商工会議所もそのような地方銀行の例です。設計者は不明とのことですが、町場の洋風店舗とは違い西洋建築に通じた人の設計であることは間違いありません。
会議所として使うのもよいのですが、観光客にも一部開放するなどして、何かもう少し地元の振興に活用してもらいたいところです。
さて、大正ロマン通り商店街の写真です。
当時はまだ電柱もあり、道路もアスファルト舗装です(現在は整備されています)。
大正〜昭和初期風の洋風店舗
通りに何軒かある洋風店舗の中で、大正館という喫茶店も商工会議所と同じドリス式(のような)付け柱があり、コーニスのような庇をささえています。
シマノコーヒー店
この建物や一番街の田中家の店舗に見られる3連アーチの外観は、源流にルネッサンスの巨匠アルベルティーのデザインがあるのかもしれません。
アルベルティー Leon Battista Alberti 1404 〜 72
「ルネサンス芸術家伝」ヴァザーリより
イタリア・ルネッサンス初期を代表する建築家。建築のみならず多くの学問に精通し、それらの専門書も著して理論家としても活躍した。ローマ法王の秘書官となり、遺跡の保存にも尽力した。
ルネッサンス期に現れた、いわゆる「万能の天才」はダビンチが有名ですが、アルベルティーの方が先人になります。
この大正ロマン通りと前述の立門前通りとが交差する角に大野屋さんと言う洋品店があります(今でもあります)。
当時の大野屋洋品店
10何年か前になりますが、この建物の外観を修復する公開設計競技が開かれました。
審査員もいましたが同時に応募案を「街角審査」として公開し一般の人たちにも投票してもらう方式をとりました。
川越だけではなく、店舗;特に洋風店舗は間口いっぱいに店の入口を設けるため、この部分には耐震壁がなく、構造的な弱点にならざるを得ません。
この大野屋さんの場合は角地にあるため東西面、南北面とも大きな開口があって角の柱一本に地震力が加わる上、屋根裏部屋の荷重もかかるという弱点を抱えているように見えました。(もちろん今回の震災では壊れていないのでしっかりつくってあるはずです)
ということで角面や他の入口横に耐震壁を挿入し、この壁を含めた門型の補強を施す案で、別にアールデコにこだわったわけではありませんでしたが、オーナーにはあまり受けが良くなかったようです。
今回の地震のあとであれば、もしかするともう少し理解を頂いたかもと勝手に想像しています。この競技の後、一部改装を受け現在は変わったデザインのアーチがついた店舗になっています。
この通りと交差する、立門前商店街も洋風店舗が何件かあり、その中でも鶴川座と言う劇場が白眉です。
現在は使われずに閉鎖されていますが、明治時代に立てられた芝居小屋で内部には当初と思われる格天井や舞台などが残されており、歴史的にも貴重な遺産です。法的、経済的などの諸事情が許せば保存改修され、是非とも活用してほしい物件です。
もともと和風の芝居小屋として(もちろん木造で)竣工しましたが、大正末か昭和初期に建物前面がタイル貼りの洋風な姿に改修されており、その一部がいまだに残っています。
当方ある事情からこの当時の姿の復元案を作ったことがありました。それがこれです。
確か大正の頃、消防法か何かで、喫煙室を設置する規定が発令されたことで、多くの芝居小屋では新たに喫煙室を、男女別に2箇所入口両脇に置くことが多かったとのこと。
全国に残る芝居小屋で、よく入口両ウィングを張り出した形体になっているのはこの理由からだと聞いています。
この鶴川座も現在入口両脇が(おそらく喫煙室用に)張り出していました。庇などもある程度残っており、それらを参考に復原を試みました。
立門前商店街はこの鶴川座のほかに、もう少し東に行くと明治43年に建てられた川越織物市場:川越市指定文化財もあり、保存活用されれば町の振興の起爆剤となるような物件があります。
そのあたりの動きは色々となされているのでしょうか、、。
立門前通りに面して、このほかにも洋風店舗が建っていました。(もちろん今もまだ多くが残っています)
(了)
その中で手の込んでいるものがこの建物。
外壁を立ち上げ(パラペットと呼びます)、全面に化粧モルタルを施しています。特にパラペットの部分は独特の意匠が凝らされています。
この化粧モルタルは東京でも戦前に洋風建物によく使われたリソイドでしょうか。
リソイドとは満州で開発された化粧塗材で、別名マンチュリア(:満州の意)セメントと言われていたと仄聞しています。川越の他の洋風店舗にも同じようなものが使われていると思われます。
今度は札の辻から東方、旧城跡の方に行って見ます。前述のように一番街に直行する東西の街路が大手門からの道:大手筋になります。
川越のような城下町で、大手門が西に開き、その大手筋に対して直角に町の主要街路(川越では一番街)が形成されるのは、秀吉の大坂城や伏見城以来の伝統のようです。
大手門跡を西から(大手筋、札の辻方向から)見る
左の大きく無粋な建物が市役所
大手門の跡、現在その脇には市役所があり、その角に太田道灌の銅像が立っています。
市役所脇に鎮座する太田道灌像
太田道灌は江戸に城を構えたことで有名ですが、川越城も同時期に築城しています。
当時は入間川が現在の荒川の筋を流れ、東京湾に注ぐ手前で荒川と利根川に合流していました。
関東の主要河川 左:江戸時代以前、右は幕府による改修後 「入間川再発見」より
道灌はこの入間川を古河公方への防御線として江戸、川越の砦を築いたようです。
川越を地図で見てみると、現在でも入間川が西から大きく円弧状に取り囲んだ舌状の大地で、南だけを防御すれば足りる優良な地勢であることがわかります。
入間川4市1村合同企画展「入間川再発見」より
室町時代の武将。関東管領上杉家の一族で武蔵国に勢力をはった扇谷上杉家の家宰。文武両道に長けていたと伝えられ、江戸城と川越城の築城者としても有名。主君扇谷定正にその才を妬まれ謀殺された。子孫は江戸幕府に仕え、大名となっている。
道灌は陪臣ではありますが、戦国初期の武将としてよく知られています。それは後に家康が幕府を江戸に開き、そこがそのまま皇居となったことで、その築城者;大東京の開祖として周知されたことも大きいのではないでしょうか。
道灌の銅像(上の写真;朝倉文夫作、川越市役所前のものとは別)は長く丸の内の旧都庁前にありましたが、現在は東京フォーラムの中に置かれています。
川越は江戸時代においても武蔵の国を治める重要な拠点であることは変わりなく、新河岸川を外堀として大きな城郭を成していました。
川越城古図 「町割りから都市計画へ」川越市立博物館 より
川越の城は幕府の重要な官僚:老中などに与えられることになっていたようです。歴代で有名なのは松平伊豆守や柳沢吉保で、現在の川越の町割りをつくったのも伊豆守です。
明治維新で川越城は廃城となり、現在残る本丸御殿玄関棟を残して他の関係建物は破却され、おまけに城郭を形成していた堀もほとんど埋め立てられていて跡形もありません。よほど新政府に気を使ったものと見えます。
上記本丸以外に城郭の遺構として主なものは、富士見櫓跡や近年整備された中の門堀跡ぐらいでしょうか。
富士見櫓跡
最近整備された中の門堀跡
城内には家臣の屋敷も多くあったはずですが、それらしきものもほんのわずかしか残っていないようです。
旧城内にある古そうな住居 川越藩士関係者の住居遺構か?
この大手門跡から南に伸びる道が川越街道;川越では江戸街道とよびます。
少し南下すると道が鍵の手状に折れ曲がっていますが、城郭によって形成されたものであることが古地図を見てもわかります。城下町の遺構として貴重です。
江戸街道、鍵の手部分現状
市役所のある大手門跡のはす向かいに銅板貼りの洋風商店が残っています。
この当時は釣具店の他に印鑑も扱っていたのでしょうか
現在は1階が改造されています
写真の時は釣具店でしたが、現在は手打ちそばの店になっています。銅板貼りは戦前の東京でも防火建築として町屋普請に使われた例が多くあります。
また、大手筋に面し、少し奥まったところに洋風意匠を取入れた蔵造りがありました。(現在もあるのか未確認)
洋風で蔵造り(?) 屋根が寄棟形式なのが珍しい
この江戸街道から少し入った路地に太陽軒があります。
当方が保存修復に関わる前の太陽軒です
江戸街道を南下し見附跡を過ぎたT字路には煉瓦造りの教会があります。
日本聖公会川越基督教会といい、大正10年の竣工で、アメリカ人の建築技師ウィルソンの手になるものとのこと。
(2010年撮影)
内部に入ると小屋組は木造です。
明治時代に日本に移入された煉瓦は、関東では確か深谷あたりでさかんに製造されたはずですが、川越でも大火後、主に敷地の防火壁に取入れられました。この教会もこの時期の煉瓦普及の一例でしょうか。
大火後に採用された煉瓦の(防火)壁の例(2010年撮影)
すぐ近く、街道に面してあるのがこの建物。
元商工会議所であったとのことですが、装飾などがなんとなく帝国ホテルの設計者ライト風です。現在は確か生命保険の事務所になっています。
側面に煉瓦の防火壁が建っています。
ライト Frank Lloyd Wright 1867〜1959
20世紀前半を代表するアメリカの建築家。水平線を重視し、地を這うように大地に根ざした形体と、劇的な内部空間を持つ住宅やその他の建築を作り出した。帝国ホテルの設計のために来日し、数件のプロジェクトにも携り一部は後に完成している。
帝国ホテルで採用した大谷石や褐色のスクラッチタイルの仕上げ、有機的な幾何学装飾は当時の日本建築に影響を及ぼし、多くの模倣作を生んでいます。
ライトが来日時に設計した建物の一つ:旧山邑邸(現ヨドコウ迎賓館)
(写真はその説明図録より)
この江戸街道の東側は藩政時代、武家地でありました。現在でも武家住居の地割を残していると推測される宅地があります。
その中で、洋風応接間を持つ住居。
明治以来の洋風住宅が普及していく過程で、住居の一隅に洋風意匠の棟を併設した新興郊外住宅が普及しました。これもその一例でしょう。
この街区をもう少し南下すると旧国道16号(現、県道15号)、成田山川越別院あたりに出ます。
その手前にある1軒の古そうな洋風店舗です。(現在あるかは不明です)
(3)へつづく
写真帳の中から、1997年頃川越の町中に建っていた洋館の写真が出てきました。
川越は蔵造り町としての建物で有名です。
蔵造りが並ぶ一番街 時の鐘
明治26年の大火のあと、現在の蔵造りが立ち並んだことはよく知られていますが、その後、関東大震災でもほとんど被害を受けず、戦災にもあっていないため、大正、昭和期(戦前)に建てられた洋館が結構残っています。
町屋のならびに洋風店舗が混在している
このほかに漆喰で塗込めていない町屋も多く残されていますが、町屋が木造商家としての典型的なスタイルをとっているのに比べて、川越の洋風建物はバラエティに富んでいます。
袖蔵を防火構造にした町屋の例
西洋の様式に通じた建築家の手になるものから、木造モルタル塗のもの、銅版貼りのものなどあり、これらを見ていくと市井のエネルギーを感じることができます。
おそらく当時のモダン東京のデザインを模倣しながら造られたと思われますが、本家東京のものの多くが戦災やバブル景気の開発で失われていることもあり、川越のそれは貴重な遺産と言えるでしょう。
ということで、この洋風建物を主要な街路ごとに見ていくことにします。
(各建物は、現在残念ながらなくなっているものもあります。このコラムを記述している時点でそれぞれについてすべて確認出来てはいません)
まず、観光地としても有名な一番街です。ここでは黒く塗込めた蔵造が立ち並び、多くの人々をひきつけていますが、この中にも洋風建築が数件建てられています。
現在もりそな銀行として営業中ですが、もとは大正7年に第八十五銀行として建てられたものです。
設計した建築家は保岡勝也です。
明治33年東京大学卒業。三菱丸の内建築事務所(現在の三菱地所?)に入所し、丸の内三菱関係の建設事業などに携る。
大正2年保岡建築事務所開設。銀行の支店や商業建築などのほかに、当時郊外に進出し始めた都市生活者:サラリーマンのための郊外住宅を手がけた。
住宅に関する著作も多く、わが国最初の住宅作家ともとらえられている。
そのキャリアから、西洋のクラシックな建築手法を身につけていたのでしょう。
この銀行の頂いているドーム;イタリア風にいうとクーポラは、隅部の塔をドラムとして、その上に円錐形の曲面を成し、頂部に優雅なランタンをのせているところなど、イタリアで成立したルネッサンス、バロックの様式を伝えているといえます。
ただし他の外壁面には古典的手法は使わず、シンプルな装飾の窓やゼブラ模様の入った控柱など独特のデザインがなされています。
保岡の手になる建物は道の反対側にも残っています。
昭和11年竣工と伝えられている鉄筋コンクリートの建物ですが、第八十五銀行とは変わって、西洋建築の古典的頂部とそれを支えるイオニア式のジャイアントオーダー(付け柱)が特徴的で、古典主義デザインをうち出しています。最近修復がなされました。
この隣に建っている田中屋。(この店舗は保岡の設計ではありません)
目を引くのが2階窓の三連アーチと間を埋めるイオニア式(のような)付け柱です。
柱は窓台から持送りで支えられていますが、後期ルネッサンス期のミケランジェロを髣髴とさせるような手法です。
ミケランジェロのデザイン;サンロレンツォ図書館前室の付け柱と持送り
[Renaissance Architecture] Peter Murray より
ミケランジェロ Michelangelo Buonarroti 1475〜1564
イタリア・ルネッサンスを代表する彫刻家、画家、建築家。
フィレンツェ出身で、メジチ家の庇護を受け、その後ローマに渡り活躍。
建築作品はおもにフィレンツェとローマにあり、サン・ピエトロ大聖堂の主任建築家にもなった。現在のサン・ピエトロ大聖堂は内陣や大ドームが彼の設計にもとづいている。
ミケランジェロは端正なルネッサンス建築に躍動感と威厳を与え、バロックの父とも言われています。
田中屋のこの柱、柱上帯を省略していきなり軒蛇腹を支えているところなど、当時の工匠の努力のあとが見られ微笑ましいところです。
ちなみに(西洋)古典主義建築のもととなった、ギリシャ神殿・イオニア式のデザインの基本形はこれです。
図:[ARCHITECTURE SOURCEBOOK] Russell Sturgis より
溝彫りのある円柱が礎盤の上に建ち、渦巻き型柱頭の上には柱上帯(:アーキトレイヴと呼ぶ)があり、その上に軒蛇腹(:コーニスと呼ぶ)という装飾帯がのります。
イオニア式神殿の例:アテネのエレクティオン
(図の出典は同上)
アーキトレイヴには(その上にもう一段の水平材:フリーズが載ることもあります)ファッシャという3段の帯や、コーニスにデンティルという歯型の飾りがあるものが様式の特徴です。
このような(柱の上に載る)古典様式で装飾された水平材をエンタブラチュアと呼んでいます。
旧山吉デパートはさすが保岡の設計で、柱はしっかりととエンタブラチュアを支え、その意匠もイオニア式の伝統を守り、アーキトレイヴにはファッシャが、コーニスにも小さいデンティルが施されています。
川越にはこのほかにもう1棟、保岡の設計になる建物が残されています。それは現在市の所有する旧山崎別邸です。
旧山崎別邸
大正14年築の住宅で、一番街に蔵造りの店を構える有名な亀屋さんの当時の隠居所であったとのこと。
一番街にある亀屋
洋館に和風の住宅が合体した造りになっていますが、洋館はアール・ヌーボー調で、和館は数奇屋風です。このような和洋折衷の住宅は保岡の得意とするところであったらしく、茶室にも通じていたこともあって、和館のインテリアには丸太普請が取入れられています。
また、庭園内には京都仁和寺の遼廓亭を写した茶室も残されています。
日本建築史基礎資料集成より
遼廓亭:りょうかくてい
京都・御室の仁和寺内にある茶室。もと同時門前の邸宅内にあったものを天保年間に移築したと伝えられ、その邸はもと尾形乾山(1663〜1743)の住居であったことから、兄の尾形光琳(1658〜1716)の好みであると伝えられている。内部は信長の末弟織田有楽(1547〜1622)が晩年に営んだ如庵(国宝)の写し。
山崎別邸ではこの図の左半分(茶室の部分)が写されています。
一番街にはこのほかにも洋風商店建築があります。(写真にはないですが、まだ数軒あります)。
一番街通りに面する洋風店舗
路地の奥にも続いている(道路の計画があって出来たとのこと)
(この写真は2010年頃撮影)
この南方、一番街から本川越駅に通じる道路:中央通り沿いにも多くの洋風店舗が建っていました。
これらは外壁を立ち上げ屋根を見せないスタイル(看板建築と呼ばれています)ですが、中にはその壁に凝ったデザインと職人の手仕事が施されていて一見に値するものもあります
この街路は昭和初期に新しく開通したので、それにあわせて新たに建てられたものが現在も残されています。一部歩道上にアーケードがありますが、補修されないままなのが痛々しいです、、。
道から少し入ったところにも何軒か存在します。
路地に面した洋風店舗 凝った意匠が目を引きます
こちらは道路から奥にある洋風住宅
保岡のような西洋建築の教育を受けていない、おそらく地元の工匠と商店主の合作であると想像しますが、そのデザインには計算されていないエネルギーを感じます。
大正から昭和初期にかけて東京の商業地に現れた洋風店舗を模したものだと思われます。
県道との交差点角にあった建物 このときは紳士服の店でした
一番街から南下した、本川越駅の近く
中央通りから少し奥に入ったところにも
中央通りは拡幅される予定ですので、ここにある建物は撤去される(あるいは撤去済み)ものが多いのではないでしょうか。
(2)につづく。
文化財クラスの修理工事ではできるだけ当初の材を残しながら修理を行います。屋根修理においても同様で、元の瓦をできる限り再利用します。
今回の場合、軒先が切り詰められていたので、これを復旧すると瓦の枚数が足りません。
予算があれば同形の瓦を焼きますが、文化財ではないので補助金もなく、それは到底かないません。したがって今回は現代の既成品を使い葺替えざるを得ませんでした。
今の製品は昔のものに比べ焼成の技術は上がっていますが、寸法が大きくなり、野太くなっています。形のばらつきは少ないので、葺き上がった時に厳格な印象を与え、風情に欠ける表情に仕上がりますが、民間の小規模工事では工費などの点から既製品の中で古建築にも何とか合致するものを使い、工事を進めていかなければなりません。
既存瓦 鬼瓦は再利用し、ほかは数枚を資料保存した
ということにて、今までの瓦は撤去しあらたに新材で葺替えることとなりました。古い瓦は数枚を資料として保存してもらうことにしました。
切り詰めた垂木も元の長さに合わせた新材に取り換え、ほかの垂木で先端が腐食している部分は補填します。軒裏板は薄板で、劣化が進んでいたため取り換えることになりました。これらも一部を資料保存します。この方針で工事を開始しました。
まず腐食した垂木掛けの一部を補填し、短い垂木も元の長さの新材に取り替えます。軒先材も補填します。
垂木及び垂木掛け一部取り換え 垂木鼻 一部補修
新たな化粧裏板は、杉板厚さ3分5厘のものを使いました。いずれも取り替え部分には既存にあわせ古色を施しました。
化粧裏板取り換え中 軒裏面には古色を施しておく
裏板取り付け終了
さて、瓦葺きですが、土を使わない、いわゆるカラ葺きという方法をとりました。瓦のピッチにあわせて野地板に打ちつけた桟に瓦を引っ掛けていく方法で、屋根重量を軽減したいときに行われる方法です。これに合わせて、既成の瓦には桟に掛けられるように上端部裏側に突起がつけられています。
但し屋根は梅雨時など湿度の影響を受けやすいので、瓦桟にはしっかりした材を使用しないと、桟の変形、腐朽によって瓦がずれてしまう恐れがあります。
極論すれば、すべての瓦を金物で固定してしまえば、大きな地震にも耐えられるものとなりますが、実際には軒先瓦などの重要な部分と各所数枚毎に瓦釘や銅線などでしっかり固定すれば地震時の対策として十分有効でしょう。
今回工事のルーフィングと瓦桟(引掛け桟)
裏板取り付けに引き続いて、ルーフィングを貼り、その上に瓦桟(引掛け桟)を打ち付けます。桟は桧の45×15の物を使いました。
軒先から軒瓦(軒唐草瓦とも呼ぶ)を取り付けていきます。きちっとした軒線の出るように調整しながら並べます。
今回は費用などの制約から面度瓦を特注することは到底かないませんでした。また場所が庇であるので土蔵本体の防火などに影響がないこと(軒裏は木地)もあり、面度部分は既成の南蛮漆喰を塗りこむ方法にしました。
既製品の南蛮漆喰
庇上部の水切り、熨斗瓦との取り合い部分(ここも面度という)にも南蛮漆喰を使います。
この材料は瓦土に変えて近年多用されているもので、土を練り、調整する手間をはぶいたものです。(ただ、重文クラスの建物で見栄えのある部分に使うのは検討を要すと思います)
軒先の瓦を固定したあと、下から瓦を取り付けていきます。
桟に掛けながら数枚毎に釘で固定します。庇の端部(:ケラバという)もラインを調整しながら役物瓦(:ケラバ瓦)を取り付けます。ラインを維持するため銅線で固定します。
今回補修する庇と直交する下屋屋根とは、袖壁をあらたに取り付けることで高さの不具合を調整することになりました。この部分には銅板の水切りを設置しその上に瓦を葺き上げます。
反対側ケラバ部分は元の鬼瓦を再利用し棟を納めていきます。鬼瓦と接する丸瓦も銅線で緊結します。
新しく作った袖壁の上にも伏間(ふすま)瓦(棟瓦の一種)を載せました。
庇上部には、瓦葺き終了後に左官工事で水切りを施工します。
熨斗瓦(のしがわら)を3段に積み、その上部に水切りを作り出します、端部は曲線で納めます。この当たりは職人さんのセンスにかかってきます。
後は仕上げをして終了です。
出来上がりはいぶし銀に輝いていますが、年月とともに落ち着いてきます。
現代の材料、たとえばコンクリートの打ち放しは竣工時が一番きれいで、年月が経つとみすぼらしく、あるいは不潔な印象を与えてしまうものも少なくありません。
瓦のような伝統的な材料は年月が経っても独特の雰囲気を醸出します。
瓦は日本人が古来から使用してきた、親しみのある優良な材料です。但し、周到な意匠計画としっかりとした施工監理をもって取り組むべきものなのでしょう。
今秋、川越にある土蔵で庇屋根の瓦葺替えを行いました。
川越は蔵造りの商家が建ち並んでいることで知られていますが、表通りに面するものだけでなく、敷地内奥にも防火建築は建てられています。その多くが土蔵で、店蔵、居宅とセットになって建てられるのが一般的です。
店蔵の奥に居宅、土蔵が配されている
今回補修を行ったのも商家に付属する土蔵です。
この土蔵です 川越でも土蔵は白漆喰仕上げが多い
棟札によると、江戸時代に竣工したものの関東大震災で被災したため、損傷した壁土をモルタルで置き換えたと記されています。
内部の壁を観察すると、確かに柱に以前塗られていた壁土の痕跡があり、大きな改修を受けていることは間違いないのですが、木部を観察してみても江戸期までさかのぼれるかは容易に判断がつきません。
内部詳細 柱の側面に古い壁土跡がのこっている
古い建物の補修工事で、たとえば和釘の使用が認められると竣工時期を明治初期以前にさかのぼってもよいのですが、今回の補修は庇の瓦葺替えなので、金物などの遺物が出てくる可能性はそれほど期待できません。
しかしながら今回の補修は、現代とは違う瓦葺き工法を確認できる良い機会です。
さて、工事前の状況です。
今回の地震では被害はありませんでしたが、瓦が劣化し多少のズレが見られます。
頂点外壁との接点は何度か改修されているようで、モルタルと鉄板にて処理されていました。どちらも痛みが激しく、放置すれば雨水が侵入して建物全体に悪影響を引き起こす可能性がありました。
軒裏では垂木の先端が腐食していたり、裏板も雨漏りの影響で一部に劣化が見られました。
また、庇の半分ほどで先端が切り詰められており、この庇に直交する下屋屋根とも納まりがうまくついていませんでした。
ということで工事は解体工事からはじめます。
瓦から取り外していきます。一枚ずつ取りはずしていくと、その下に葺き土が現れます。
軒先の部分には瓦の曲線と軒先材(:淀-よど という)との隙間(:面度-めんど という)を埋める役物の瓦:面度瓦が使われていました。
この部分には瓦座という瓦の曲線を削りだした横材を打ちつけ、それに軒瓦を載せていく方法もありますが、今回は土蔵であったので防火性を重視して面度瓦を使用したものと思われます。
また、この瓦座の上に1枚敷平(しきひら)瓦という瓦を載せることもありますが、この庇には使われていませんでした。
瓦を取りはずし今度は土をおろして行きます。
約6センチ(2寸)ほどの厚さがありました。
その下には杉皮が現れます。
杉皮の上には角材が打ってあります。これを土留桟(どどめざん)といいます。
今回は木の桟ですが、割り竹を使うこともあります。土留桟は文字通り葺き土の動きを留めるのと同時に、瓦に結んだ銅線を巻きつけて、所々の瓦を引き留めることもあります。
杉皮は昔の木造一般建築で下地材によく使用されていました。現在ではこれに代わってアスファルトルーフィングが使われています。
また、寺院など高級建築では土居葺きといってサワラなどの薄板を段々に打ち付けたもの:杮葺きと同じものを下地に使うこともあります。
杉皮を取り外すと軒裏板が見えてきます。
この板は厚さが7ミリの杉板で、一般住居室内に使う天井板と同じ厚さのものでした。今回の庇は軒裏を見せる化粧屋根裏なので、裏板を室内と同じものにしたと思われます。
軒裏を見せない一般の屋根の場合、この部分の板は野地板と呼ばれ9ミリから12ミリ厚ぐらいの板を使います。現在では野地板にほとんどが耐水合板を使っています。
板をはずすと垂木が現れました。
土蔵外壁に取付いた垂木掛けはかなり傷んでいました。
この部分鉄板を入れたりしていましたが、何度か雨漏りをおこしていたのでしょう。垂木掛けは腐朽下部分を入れ換えた跡があります。折れ金物で外壁に取付いているので、外壁が仕上がった後、庇を施工したことがわかります。
垂木の釘跡を確認すると裏板を1回しか留めていないことがわかります。
ということはこの庇は造られてから裏板を一度も取り替えておらず当初の材であることがわかります。また、瓦を葺き替えた記録は所有者の聞き取りからは得られませんでした。
桟などを留めていた釘はすべて洋釘が使われていました。
このことから、この建物は棟札にあるように、大正12年の関東大震災のあと土蔵本体を補修し、そのあとにこの庇が造られていて、その後大きな改変も無く今に至っているものと思われました。
そのあたりを整理してみると,以下の点が考えられます。
1.他の屋根材に比べ重量があり、そのぶん建物の負担になる。
2.年月が経つとズレなど劣化が生じる。
3.それなりの工事費用がかかる。
このほかに、
4.意匠が古風で重々しく、モダンなデザインにはならない。
まず1.と2.は瓦の宿命といえるでしょう。瓦を葺くには葺土を必要とします。その粘着力によって瓦を屋根に密着させています。そのため、たとえば金属板やスレートなどに比べると当然重量が増し、土が劣化してくると付着力が落ちてずれてくることになります。
3.も瓦工事の宿命です。そもそも瓦自体が鉄板などよりも高価な上に、葺き土を載せながら一枚ずつ丁寧に施工していくので費用がかかってきます。
4.雨の多い日本では、建物の屋根勾配を高くして庇を張出した形になりました。また、おおらかな屋根は日本建築には欠かせないもので、瓦屋根の美しさが建物全体の印象を決定してしまいます。
大きな瓦屋根は日本建築美の大きな要素
唐招提寺 金堂・奈良時代 東大寺 法華堂・奈良、鎌倉時代
逆に現代の建築では屋根をあまり見せずに軽快にすることが好まれています。このように瓦は、洋風瓦を使ったとしても、モダンなスタイルにはなかなかなり得ません。
では、屋根を瓦にする利点は何でしょうか。
上に列記した事項を逆に考えて見ます。
1.建物に一定の重量を与え安定させることが出来る。
2.防火性がある。
3.遮音性、断熱性がある。
4.建物に伝統的な安定感を与え、高級感に富む。
1.庇を張出した日本建築では、大風に飛ばされないように屋根に重さが必要となります。そこで重い瓦を載せることで台風にも耐えることができ、且つ全体に与える瓦の重量が建物を大地にしっかりと根付かせることも出来ます。
2.3. 瓦は燃えることはありません。屋根面の耐火には適した材料で、城郭や蔵などに昔から使われていました。
姫路城・江戸時代初期
川越の蔵造り 亀屋・明治時代
また、下地に土を使うこともあって断熱性にも優れ、雨音が室内にもれることもありません。但し雪の降り積もるような地域では凍て付いて損傷することもあり、建物には瓦と雪の重量も加わるのであまり向いていません。
4.瓦葺きの伝統的な建物は、オーソドックスではありますが、やはり人々に好まれています。そして鉄板葺きの屋根よりも間違いなく高級感があります。逆に金属板は瓦に比べ断熱性が低く、風にも弱い材料です。
瓦には数種の形態があり、たとえば重量感に富む本瓦葺きから、京都の町屋に使われる一文字瓦のような軽快な物もあります。
重厚な本瓦葺き:寺院などに使われる
軽快な一文字瓦葺き:京都の町屋などによく使われる
以上のように瓦は素材としても意匠性でもいまだ捨てがたい材料です。新築や改装に際しても全体のデザインを勘案した上、瓦葺きの欠点を補いながら使用すると建物に安定感を与えることが可能となります。
新河岸川に戻ります。
旧引又宿が武蔵野の突端にあり、新河岸川を北に渡るとその先は低地となっていると前述しました。
そもそも武蔵野とは、北を荒川とその支流、南を多摩川と支流で区切られた大地を言います。
武蔵野の地勢:「入間川再発見・図録」より
図のように南北を川で挟まれているため、水は留まることなくどちらかへ捌けてしまいます。今でも武蔵野台地には水田はほとんどありません。
この原野の東端に江戸幕府が成立しましたが、開府当初から飲み水の確保に苦しみました。主要市街は埋立地のため、井戸からは塩気を含んだ水が多く、山の手台地では深井戸を掘らなければなりませんでした。
現在赤坂近くにある溜池という地名は、文字通り池があった跡で、その水を飲料としたり、あるいは神田川の水を市内に取入れて水不足を凌いでいました。
寛永年間(1630年代)の江戸:「江戸の町」 草思社より
しかし人口の増加には対応しきれず、ついに新たな水道を建設することとなりました。それが玉川上水です。
玉川上水は四代将軍の治世下、承応3(1654)年に竣工したと伝えられ、多摩川の上流、現在の羽村から四ツ谷まで流路を開削し、その先は埋設され市街の水道となっていました。
現在の玉川上水 羽村から野火止用水取水口までは今も使用している
工事の総奉行として老中松平伊豆守があたり、玉川兄弟が請負って完成させたといわれています。
さて、以下の記述は江戸研究の大家三田村鳶魚によります。
三田村鳶魚 1870〜1952
明治3年東京生まれ、多摩壮士、新聞記者を経て江戸時代の研究に入る
またその研究会も主催 江戸学の祖
玉川上水開通当時の記録は無く、伊豆守も老中の任にあった時期の事柄を意図的に残していないので、工事の詳細な事項は不明なことが多いのです。
少なくとも伊豆守と家臣の安松金右衛門、玉川兄弟が関わったことは事実であるらしいとのこと。
当時伊豆守は川越の城主でもあり、玉川上水開通の功に代えてその水を領地内に引き込むことを許され、上水開通とほぼ同時に(1655年)分水工事を行いました。それが野火止用水です。
野火止用水は小平小川村(現在立川市に属する地)から北東に武蔵野の原野を貫き、多摩川の分水嶺を越えて野火止に至り、志木の旧引又宿にて新河岸川(当時は柳瀬川か)に流下していました。
野火止用水取水口・右は玉川上水
引又宿ジオラマ・街路中央を用水が流れていた
いろは橋交差点の展示より
安松金右衛門は松平家の土木技官で、実は玉川上水の開通も安松の指導によるものであるらしく、もちろん野火止用水も彼の実施計画によっていることは確かなようです。
この用水によって野火止地区(現在の新座市)は農地として開発され、多くの入植者によって畑作が行われるようになりました。ためにこの地域ではこの用水に謝意をもって伊豆殿堀と呼んでいます。
現在この地区の中心に平林寺がありますが、その境内にも野火止用水の流れが残されています。
平林寺境内の野火止用水 謝恩碑もたてられている
平林寺は松平家の菩提寺であり、伊豆守の墓所もありますが、昭和初期に鳶魚の尽力によって安松の墓もここに移されています。
平林寺 松平家 墓所
さて、引又宿でも野火止用水を飲料などに大いに活用していたことでありましょう。
水はこの地で新河岸川に放流し終わってしまいます。対岸の宗岡地区にとって目の前で良質な水が放棄されることに痛惜を感じていたことは想像に難くありません。
そこでこの水を引込むことが計画されました。寛文2(1662)年、この地を領していた幕臣岡部氏の発案で対岸宗岡村に送水する工事が成されました。
用水は樋によって新河岸川を横断させ、舟の運行を妨げないよう川の上空を渡っておりました。
伊呂波樋 新編武蔵風土記稿
それは箱樋をつなぎ合わせた形式で、そのパーツが当初48個あり、いろは歌になぞらえ伊呂波樋と呼ばれ(また千貫樋とも)最盛期には約120間の長さが合ったと伝えられています。
江戸名所図会 伊呂波樋と当時のいろは橋 川の合流点は現在よりも上流
工事を担当したのは岡部家の家臣白井武左衛門と伝えられています。但し鳶魚翁はこの掛樋も実は安松の成したものではないかと疑っています。
伊呂波樋は何度か漏水事故をおこしていた模様で、明治期には川の地中に埋設管を設けて樋を廃し、用水はその後も活用されていました。
現在市役所前の橋をいろは橋と呼ぶのはこの樋によるものです。
いろは橋前の交差点に伊呂波樋の掛樋と枡を復元したものと、江戸期の復元模型が展示されています。
いろは橋手前交差点に展示されている枡と掛樋
また、いろは橋を渡り宗岡地区に進むとその道沿いに元の用水が暗渠となって現在も残っています。
宗岡地区の用水跡・いろは橋から続く道路脇に暗渠として痕跡がある
市の郷土資料館はそのさらに先、この地区の大体中心部にあります。かつての宗岡村にあった農家を改造した建物とのことです。
農機具や、民俗資料の展示に加えて、野火止用水についても説明する展示があります。
館員の方の説明によると、この地区に残る水路やその跡は用水とは直接的な関係は無く、村の排水路であるとのこと。
元来宗岡村は荒川と新河岸川に挟まれ、川が増水すると排水に難儀した地域で、そのために排水路が縦横にはしっており、現在もそのいくつかをみることができます。
宗岡地区 排水路の一つ
住人は水塚という台地に居を構え、住居の屋根裏には増水に備えて舟が置かれ、その写真も展示されていました。
ただ、この資料館、農家を改造したとのことですが(古い写真あり)、改修の仕方が新建材によって覆っただけとなっていて、古民家を使用する意義が見出せません。
市郷土資料館
また貴重な展示物の図録なども無く、旧引又宿の町割図(前掲のもの)のコピーがあるだけというのは如何なものでしょう。
現代ならばその気になればPCで小奇麗な冊子などつくることは難しくはないのですが、あまりアピールする意識も無いのでしょうか。
その立地も他所からの訪問者には(おそらく市民にも)遠いところで、常時閑散としているのではないでしょうか。
いろは橋を渡り交差点に出るとその角に門が移築されています。
旧西川家門
西川家という旧家にあった潜り門と説明版にあります。潜りとしてより、一般的な棟門形式で、両袖にも塀が付属しています。門の瓦は移築時に葺きかえられている模様で、寸法が少し大きなものになっているのではとの印象を持ちます。
また、この十字路を市場通りから曲がって西に少し行ってみると、土蔵と古そうな倉庫が何軒か建っていました。
土蔵と倉庫が残る、年月は経っている模様
市場通りに戻り南下していくと、そこにも商家が残っています。
いろは橋近くの町屋;前に車が止まってしまいました
街路に面し1階に下屋を設け、出し桁で屋根を張り出す二階建町屋造りですが、防火のため両端:妻面を塗込めているのが特徴的です。
この処置をしているのは端部から1間ほどで中央は木地を表しています。
妻側を塗込にした様子
この形式は志木の他の町屋でも見られますが、隣地に面する部分を防火仕上げとして類焼を防ぎ、中央部は木造であることを表現する合理的な意匠と考えてよいでしょう。
木の良さと塗りのテクニックを同時に示す様式とも言えます。
妻側塗込のデザイン
妻側の塗りを見てみると、破風板の線(眉:まゆ、あるいは眉書きと呼ぶ)の凝った意匠やその下に取りついた装飾(懸魚:げぎょ)、あるいは鬼瓦の影盛りなど江戸時代から踏襲された塗込町屋の手法を用いています。
壁は灰色をしていますが雨の当たらない部分は黒漆喰を残しているようです。したがって鼠漆喰ではなく黒漆喰の退色した姿とおもわれます。
(現在の川越の蔵造りは黒の塗装が施されてその姿が維持されています。あるいはこの町屋も塗装されているかもわかりませんが、、、)
南側に取りついている平屋は多分近年の増築でしょう。残念ながら、瓦や破風の意匠が古い部分と合っていません。また、奥にも店や居宅が続いているのが道路から見てとれます。
いずれにしても建物の造り、品格からいって引又宿の繁栄を今に伝える貴重で優良な建物であることは間違いありません。
道の反対側、川の近くにも古そうな建物が見て取れます。
町屋造りの建物と、川筋に面しても建物(居宅?)が見える
もう少し南下するとまた町屋が残されています。
薬を扱う商家のようで、古看板もいまだに掲げられています。
南側に居宅への門と塀も備えていて、庭があり、隣地と接近していないためか、妻側を防火構造にしていない町屋の例です。登録文化財であるようです。
そのまた少し離れたところにも町屋が建っています。
この町屋も両端妻面と正面端部1間を防火構造にした例です。現在は使われていないようですが、近寄ってみると良材を使った堂々たる建物であることがわかります。
惜しいことに解体工事がはじめられたようで、往時の繁栄をしのぶ遺産が一つ失われたことになります。
また、道の反対にも両端防火構造の町屋があります。
奥には土蔵も残されています。
前掲の江戸末期町割り図を見ると、通りに面した町屋の構えが表現されていますが、その中で街路に建物端部:妻側を見せ、屋根の稜線:破風を表した建物が描かれています。
この形式を今に伝える町屋が1軒残っていました。
現在は1階を改造した姿になっていますが、上階と屋根は間違いなく絵図の形式(入母屋形式)を今に伝えている貴重な例といえます。これからも何とか残ってほしい建物です。もちろん復元されればなおよいのですが、、。
他の商店でも新建材で覆われ、もとの姿を隠したものがありそうです。
この商店もその例で、屋根瓦が残り、棟に凝った積み方が見てとれます。
さて、市場通りからはなれ、少し奥に入っていくと、なかなかのものが残っていました。材木を扱う商家です。
かつてのにぎわいを思うとこの規模のものがあっても少しもおかしくはありません。町屋造りの店、付属の袖蔵、ほかにも敷地内には土蔵などいろいろと建っています。
町屋は材木商の店舗にふさわしく良材をもって造られています。妻面はこの地域のスタイルにのっとり塗込となっています。
袖蔵も堂々たる建築で2階窓には観音扉が取り付けられています。この蔵の前には煉瓦の塀がありますが、この煉瓦塀も堅実に造られていて古そうに思われます。
道の反対側にも付属建物があり、木の構造体を露わにしている倉庫(?)や、土蔵も残っています。
おそらく埼玉あるいは関東地区でもかなり良質の商家建築と考えてよいでしょう。このままの姿を何とか維持していただきたいところです。
少しはなれたところにも窯業関係の炉(と思われる)を備えた古そうな作業所や付属施設があったり、居宅の敷地に残る土蔵も見て取れました。
このように駆け足で歩いてみてもかつての賑わいを象徴する由緒ある建物がまだ残されています。
これらは志木が新興ベッドタウンとは異なり、江戸時代より繁栄を見た由緒ある都市である事を人々に示し、地域の人々の誇りとなるべく貴重な財産でありましょう。
但し、現在の経済状況や地域構造の変化が、残された建物の維持、存続を可能とするかは、部外者が考えても困難を伴うことは容易に想像できることで、まずは環境が少しでも有利に改善されること第一なのでしょう。
埼玉県志木市は人口約7万人、東武東上線沿線のベッドタウンの一つです。蔵の町として有名な川越に至る道筋の町でもありますが、川越と同様に江戸期から物資の集積地として賑わいを見せていました。
当時の主要な輸送手段は舟で、その動脈を担っていたのが新河岸川です。新河岸川は川越の東端より始まり朝霞近辺で荒川に合流しますが、流れはそのまま隅田川に至り浅草まで物資を運ぶことができました。
新河岸川舟運は江戸から明治期を経て昭和初期まで続けられていて、出発点の川越新河岸のみならず沿岸各地に集積地:宿場が設けられていました。
志木市地図(右斜上が北)・南の旧市街と北部の宗岡地区とが合体して成立
中央に新河岸川と柳瀬川の合流地がある。
志木の町はその舟運の宿場がもととなって発展し形成されたもので、その宿は引又宿と呼ばれていました。
志木の駅から川にむかい北上していくと、岸の手前で土地が低く落ちていくのがわかります。このあたりが武蔵野台地の北端に当たり、そこから先は荒川まで低地が続く別の地勢となっています。この突端に引又宿があり、河岸が設けられていました。
また、この場所は南西方向から流れてくる柳瀬川が合流する地点でもあり、さらに玉川上水から分かれた野火止用水の最終他点でもありました。
志木の地勢・新河岸川までが武蔵野大地
新河岸川の流路はかつてとは変えられていますが、引又宿であった地域はその後の大きな改変はなく、往時の町割を現在に伝えているようです。
宿の中央を貫ける街路が設けられ、その両側に商家が並んでおり、その様子が絵図に描かれています。この絵図は江戸後期文化年間のもので、舟運で賑わった最盛期の宿の様子を伝えています。図は郷土資料館でコピー資料として配布されています。
これを見ると河岸に通ずるメインの通りはそのままに、今も市場通りとして存在しますが、道の中央を野火止用水が流れていたことがわかります。
現在の市場通り、かつて中央に野火止上水が流れていた
そのつき当たる先、新河岸川と柳瀬川の合流地点は現在地よりも上流にあったこともわかります。
新河岸川は郡境で、川向こうの宗岡地区は入間郡に属していました。
現在の志木市役所はこの郡境、改修された両川の合流点にあたかも二つの地域合併を象徴するように建っています。
この建物、高度成長期によくあるモダニズムですが、同時期に建てられた役所建築が無粋なものが多い中ではなかなかの構成力を見せています。
かつての郡境であった洲に両手を広げるように曲面を見せ、正面入口をスロープで一段高く上げているところなど、昭和の成長期を象徴するスタイルに出来上がっています。
今となっては外壁タイルがいくぶん陰気な印象で、そこ各所が老朽化しているとはおもいますが、たとえば正面のサッシをうまくリノベーションするだけでも輝きを取り戻せそうな感じがします。
この建物に相対して道の反対側に公園があり、ここに一軒の商家が移築されています。
村山快哉堂と呼ばれている建物で明治10年竣工とのこと。木造二階建の商家で塗込瓦葺きの防火建築です。移築されたのはおそらく通りに面していた店の部分で、奥に続く居宅は廃棄されたのでしょうか。
村山快哉堂・正面
裏側には観音扉などが残されています。道に面した2階窓はムシコ窓を採用してエレベーションの特長ともなっています。
同、背面の様子・観音扉が見える
壁は鼠漆喰仕のように見えますが、あるいは川越と同様の黒漆喰が退色した状態なのでしょうか。移築時に漆喰も塗りなおしているとすれば、退色の景色がうまく表現されています。
毎週末に公開している模様です(この日は平日で非公開)。
この公園の南東、突端が現在の新河岸、柳瀬両河川の合流点になっています。