川越洋館列伝(3)

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    さて、成田山川越別院あたりから県道15号を西に向かうと数軒の洋風店舗が残っています。


    中には現在撤去されたものもあります。

     
    成田山入口角にあった洋風3階建て


    成田山前の通り、銅板貼り店舗


    多くが前述のリソイド掻き落としに類するもので外壁を仕上げています。


    パラペットが凝っています

     


    モダン意匠系



    看板が無く、下屋がオリジナルならばオシャレだったかも



    今度は町の西側を走る街路です。

    この通りは狭山市にも通じ、川越市駅付近から中央通りと並走して北上していく道ですが、それなりの街路を形成していて、町屋の中に洋風店舗も混在しています。

    まずは旧六軒町郵便局。昭和2年築の木造下見板貼りです。現在はイタリア料理店になっています。




    もう少し北にも下見板貼りの建物がありました。たしか病院の建物でしたが、現在はなくなっています。


    窓の一つ一つにペディメント(破風)が取り付けられています

    このほか洋風店舗が数件ありました。

     

     

    この通りは町屋や土蔵がいまだに散見されます。


    建設会社の本店に付属する建物(2010年撮影)



    さて、町の中心部にもどります。

    中央通の東側に併走する街路がありますが、前述のように中央通は昭和初期に開通した新しい道で、東に位置するこの道が江戸時代からのものです。


    大正2年の市街図「町割から都市計画へ」より
    本川越駅から一番街への中央通は未開通、その東側の道が古い

    駅付近はだいぶ開発されていますが、北上するにつれて町屋など古い建物がちらほら現れてきます

    先ほどの旧16号線(県道)を超えて北に行くと多くの洋風店舗が現れてきます。


    この近くには
    蓮馨寺という古い寺があり、その門前通りであった東西の道(:立門前商店街)をこえると「大正ロマン夢通り」という長い名前の街路になります。

    ここにも大正から昭和にかけての洋風店舗が数軒あり、北端には古典主義の建物が鎮座しています。



    この建物は現在川越商工会議所になっていますが、もとは旧埼玉銀行の支店であったとのことです。鉄筋コンクリート造、石貼りの古典主義建築で昭和13年築と伝えられています。


    壁面にドリス式のジャイアント・オーダー(付け柱)を施した重厚な構成で、上部エンタブラチュアにもドリス式神殿に見られるトリグリフとメトープがしっかりと付加されています。
    T字路に面した角面に入口を設け、出入口上部にはバロック風の破風をのせています。

    ちなみにドリス式神殿の様式とはこれです。


    図:[ARCHITECTURE SOURCEBOOK] Russell Sturgisu より

    ドリス式はもっとも力強く、男性的なデザインと言われています。

    ギリシャの神殿の様式(オーダーとよぶ)は大別して3種類あり、これがそのままローマ建築にも流用されました。
    建築を美しく飾ることにおいて、古代ギリシャ人は長けていて、ローマ建築を経てヨーロッパ古典建築の様式の源流となっています。


    ギリシャ神殿の様式図
    図:世界の文化史跡 ギリシャの神殿より

    日本でも明治維新以来の洋風建築に取り入れられ、特に権威のある建物などに採用されました。今は多くが撤去されてしまいましたが、地方の銀行建築などにもこの古典様式の建物が多く見られました。

    この商工会議所もそのような地方銀行の例です。設計者は不明とのことですが、町場の洋風店舗とは違い西洋建築に通じた人の設計であることは間違いありません。

    会議所として使うのもよいのですが、観光客にも一部開放するなどして、何かもう少し地元の振興に活用してもらいたいところです。


    さて、大正ロマン通り商店街の写真です。

     

     

    当時はまだ電柱もあり、道路もアスファルト舗装です(現在は整備されています)。


    大正〜昭和初期風の洋風店舗

    通りに何軒かある洋風店舗の中で、大正館という喫茶店も商工会議所と同じドリス式(のような)付け柱があり、コーニスのような庇をささえています。


    シマノコーヒー店

    この建物や一番街の田中家の店舗に見られる3連アーチの外観は、源流にルネッサンスの巨匠アルベルティーのデザインがあるのかもしれません。


    アルベルティー Leon Battista Alberti  1404 〜 72
    「ルネサンス芸術家伝」ヴァザーリより

    イタリア・ルネッサンス初期を代表する建築家。建築のみならず多くの学問に精通し、それらの専門書も著して理論家としても活躍した。ローマ法王の秘書官となり、遺跡の保存にも尽力した。


    ルネッサンス期に現れた、いわゆる「万能の天才」はダビンチが有名ですが、アルベルティーの方が先人になります。



    アルベルティーが三連アーチを用いた建物の1例
    マラテスタの神殿 1468年  Peter Murray [Renaissance Architecture]

    そしてアルベルティーもそのネタ元をローマの凱旋門に求めていますから、遠くローマから時間と距離を経て川越までやってきたことになります。


    コンスタンティヌスの凱旋門 ローマ 315年
    朝日百科 世界の美術より


    この大正ロマン通りと前述の立門前通りとが交差する角に大野屋さんと言う洋品店があります(今でもあります)。



     
    当時の大野屋洋品店

    10何年か前になりますが、この建物の外観を修復する公開設計競技が開かれました。

    審査員もいましたが同時に応募案を「街角審査」として公開し一般の人たちにも投票してもらう方式をとりました


    そのときの当方の応募案がこれです。

     

    川越だけではなく、店舗;特に洋風店舗は間口いっぱいに店の入口を設けるため、この部分には耐震壁がなく、構造的な弱点にならざるを得ません。

    この大野屋さんの場合は角地にあるため東西面、南北面とも大きな開口があって角の柱一本に地震力が加わる上、屋根裏部屋の荷重もかかるという弱点を抱えているように見えました。(もちろん今回の震災では壊れていないのでしっかりつくってあるはずです)

    ということで角面や他の入口横に耐震壁を挿入し、この壁を含めた門型の補強を施す案で、別にアールデコにこだわったわけではありませんでしたが、オーナーにはあまり受けが良くなかったようです。



    今回の地震のあとであれば、もしかするともう少し理解を頂いたかもと勝手に想像しています。この競技の後、一部改装を受け現在は変わったデザインのアーチがついた店舗になっています。


    この通りと交差する、立門前商店街も洋風店舗が何件かあり、その中でも鶴川座と言う劇場が白眉です。



    現在は使われずに閉鎖されていますが、明治時代に立てられた芝居小屋で内部には当初と思われる格天井や舞台などが残されており、歴史的にも貴重な遺産です。法的、経済的などの諸事情が許せば保存改修され、是非とも活用してほしい物件です。

     
     

    もともと和風の芝居小屋として(もちろん木造で)竣工しましたが、大正末か昭和初期に建物前面がタイル貼りの洋風な姿に改修されており、その一部がいまだに残っています。

    当方ある事情からこの当時の姿の復元案を作ったことがありました。それがこれです。





     

    確か大正の頃、消防法か何かで、喫煙室を設置する規定が発令されたことで、多くの芝居小屋では新たに喫煙室を、男女別に2箇所入口両脇に置くことが多かったとのこと。
    全国に残る芝居小屋で、よく入口両ウィングを張り出した形体になっているのはこの理由からだと聞いています。

     

    この鶴川座も現在入口両脇が(おそらく喫煙室用に)張り出していました。庇などもある程度残っており、それらを参考に復原を試みました。


    立門前商店街はこの鶴川座のほかに、もう少し東に行くと明治43年に建てられた川越織物市場:川越市指定文化財もあり、保存活用されれば町の振興の起爆剤となるような物件があります。

    そのあたりの動きは色々となされているのでしょうか、、。

    立門前通りに面して、このほかにも洋風店舗が建っていました。(もちろん今もまだ多くが残っています)







    (了)


    川越洋館列伝(2)

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      川越は城下町であったことから、防御を重視して街路は筋違いになっていました。

      一番街の通りも中央通がつくられるまで南端はT字路で止まっていました。但し北上すると、城の大手門から西に伸びる道とは十字に交差しています。


      元禄7年川越城下図 「町割から都市計画へ」市立博物館より
      一番街の南端がT字路で、札の辻だけが十字路であることがわかる


      こは城下町としておそらく唯一の十字路で、江戸時代には高札場となっていました。現在の札の辻です。


      札の辻 当時の面影をもう少し復元してもよいのではないでしょうか



      これより北上すると街がだんだん途切れて一般住宅も多くなります。

      その中で手の込んでいるものがこの建物。

       

      外壁を立ち上げ(パラペットと呼びます)、全面に化粧モルタルを施しています。特にパラペットの部分は独特の意匠が凝らされています。



      この化粧モルタルは東京でも戦前に洋風建物によく使われたリソイドでしょうか。

      リソイドとは満州で開発された化粧塗材で、別名マンチュリア(:満州の意)セメントと言われていたと仄聞しています。川越の他の洋風店舗にも同じようなものが使われていると思われます。



      今度は札の辻から東方、旧城跡の方に行って見ます。前述のように一番街に直行する東西の街路が大手門からの道:大手筋になります。

      川越のような城下町で、大手門が西に開き、その大手筋に対して直角に町の主要街路(川越では一番街)が形成されるのは、秀吉の大坂城や伏見城以来の伝統のようです。


      大手門跡を西から(大手筋、札の辻方向から)見る
      左の大きく無粋な建物が市役所


      大手門の跡、現在その脇には市役所があり、その角に太田道灌の銅像が立っています


      市役所脇に鎮座する太田道灌像


      太田道灌は江戸に城を構えたことで有名ですが、川越城も同時期に築城しています。


      当時は入間川が現在の荒川の筋を流れ、東京湾に注ぐ手前で荒川と利根川に合流していました。


      関東の主要河川 左:江戸時代以前、右は幕府による改修後 「入間川再発見」より

      道灌はこの入間川を古河公方への防御線として江戸、川越の砦を築いたようです。

      川越を地図で見てみると、現在でも入間川が西から大きく円弧状に取り囲んだ舌状の大地で、南だけを防御すれば足りる優良な地勢であることがわかります。


      入間川4市1村合同企画展「入間川再発見」より




      太田道灌 1432 〜 86

      室町時代の武将。関東管領上杉家の一族で武蔵国に勢力をはった扇谷上杉家の家宰。文武両道に長けていたと伝えられ、江戸城と川越城の築城者としても有名。主君扇谷定正にその才を妬まれ謀殺された。子孫は江戸幕府に仕え、大名となっている。

      道灌は陪臣ではありますが、戦国初期の武将としてよく知られています。それは後に家康が幕府を江戸に開き、そこがそのまま皇居となったことで、その築城者;大東京の開祖として周知されたことも大きいのではないでしょうか。

      道灌の銅像(上の写真;朝倉文夫作、川越市役所前のものとは別)は長く丸の内の旧都庁前にありましたが、現在は東京フォーラムの中に置かれています。


      川越は江戸時代においても武蔵の国を治める重要な拠点であることは変わりなく、新河岸川を外堀として大きな城郭を成していました。


      川越城古図 「町割りから都市計画へ」川越市立博物館 より

      川越の城は幕府の重要な官僚:老中などに与えられることになっていたようです。歴代で有名なのは松平伊豆守や柳沢吉保で、現在の川越の町割りをつくったのも伊豆守です。

      明治維新で川越城は廃城となり、現在残る本丸御殿玄関棟を残して他の関係建物は破却され、おまけに城郭を形成していた堀もほとんど埋め立てられていて跡形もありません。よほど新政府に気を使ったものと見えます。

      上記本丸以外に城郭の遺構として主なものは、富士見櫓跡や近年整備された中の門堀跡ぐらいでしょうか。


      富士見櫓跡


      最近整備された中の門堀跡

      城内には家臣の屋敷も多くあったはずですが、それらしきものもほんのわずかしか残っていないようです。

       
      旧城内にある古そうな住居 川越藩士関係者の住居遺構か?



      この大手門跡から南に伸びる道が川越街道;川越では江戸街道とよびます。

      少し南下すると道が鍵の手状に折れ曲がっていますが、城郭によって形成されたものであることが古地図を見てもわかります。城下町の遺構として貴重です。


      江戸街道、鍵の手部分現状


      市役所のある大手門跡のはす向かいに銅板貼りの洋風商店が残っています。


      この当時は釣具店の他に印鑑も扱っていたのでしょうか
      現在は1階が改造されています

      写真の時は釣具店でしたが、現在は手打ちそばの店になっています。銅板貼りは戦前の東京でも防火建築として町屋普請に使われた例が多くあります。

      また、大手筋に面し、少し奥まったところに洋風意匠を取入れた蔵造りがありました。(現在もあるのか未確認)


      洋風で蔵造り(?) 屋根が寄棟形式なのが珍しい

      この江戸街道から少し入った路地に太陽軒があります。


      当方が保存修復に関わる前の太陽軒です

      江戸街道を南下し見附跡を過ぎたT字路には煉瓦造りの教会があります。

      日本聖公会川越基督教会といい、大正10年の竣工で、アメリカ人の建築技師ウィルソンの手になるものとのこと。


      (2010年撮影)

      内部に入ると小屋組は木造です。

      明治時代に日本に移入された煉瓦は、関東では確か深谷あたりでさかんに製造されたはずですが、川越でも大火後、主に敷地の防火壁に取入れられました。この教会もこの時期の煉瓦普及の一例でしょうか。


      大火後に採用された煉瓦の(防火)壁の例(2010年撮影)


      すぐ近く、街道に面してあるのがこの建物。



      元商工会議所であったとのことですが、装飾などがなんとなく帝国ホテルの設計者ライト風です。現在は確か生命保険の事務所になっています。

      側面に煉瓦の防火壁が建っています。






      ライト Frank Lloyd Wright  1867〜1959

      20世紀前半を代表するアメリカの建築家。水平線を重視し、地を這うように大地に根ざした形体と、劇的な内部空間を持つ住宅やその他の建築を作り出した。帝国ホテルの設計のために来日し、数件のプロジェクトにも携り一部は後に完成している。

      帝国ホテルで採用した大谷石や褐色のスクラッチタイルの仕上げ、有機的な幾何学装飾は当時の日本建築に影響を及ぼし、多くの模倣作を生んでいます。


      ライトが来日時に設計した建物の一つ:旧山邑邸(現ヨドコウ迎賓館)
      (写真はその説明図録より)

      この江戸街道の東側は藩政時代、武家地でありました。現在でも武家住居の地割を残していると推測される宅地があります。

      その中で、洋風応接間を持つ住居。


       

      明治以来の洋風住宅が普及していく過程で、住居の一隅に洋風意匠の棟を併設した新興郊外住宅が普及しました。これもその一例でしょう。

      この街区をもう少し南下すると旧国道16号(現、県道15号)、成田山川越別院あたりに出ます。

      その手前にある1軒の古そうな洋風店舗です。(現在あるかは不明です)



      (3)へつづく


      川越洋館列伝(1)

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        写真帳の中から、1997年頃川越の町中に建っていた洋館の写真が出てきました。


        川越は蔵造り町としての建物で有名です。

          
        蔵造りが並ぶ一番街         時の鐘    

        明治26年の大火のあと、現在の蔵造りが立ち並んだことはよく知られていますが、その後、関東大震災でもほとんど被害を受けず、戦災にもあっていないため、大正、昭和期(戦前)に建てられた洋館が結構残っています。


        町屋のならびに洋風店舗が混在している

        このほかに漆喰で塗込めていない町屋も多く残されていますが、町屋が木造商家としての典型的なスタイルをとっているのに比べて、川越の洋風建物はバラエティに富んでいます。


        袖蔵を防火構造にした町屋の例

        西洋の様式に通じた建築家の手になるものから、木造モルタル塗のもの、銅版貼りのものなどあり、これらを見ていくと市井のエネルギーを感じることができます。

        おそらく当時のモダン東京のデザインを模倣しながら造られたと思われますが、本家東京のものの多くが戦災やバブル景気の開発で失われていることもあり、川越のそれは貴重な遺産と言えるでしょう。



        ということで、この洋風建物を主要な街路ごとに見ていくことにします。


        (各建物は、現在残念ながらなくなっているものもあります。このコラムを記述している時点でそれぞれについてすべて確認出来てはいません)


        まず、観光地としても有名な一番街です。ここでは黒く塗込めた蔵造が立ち並び、多くの人々をひきつけていますが、この中にも洋風建築が数件建てられています。

        ここでよく知られているのが旧埼玉銀行。



        現在もりそな銀行として営業中ですが、もとは大正7年に第八十五銀行として建てられたものです。


        設計した建築家は保岡勝也です。




        保岡勝也 1877(明治10)1942(昭和17)

        明治33年東京大学卒業。三菱丸の内建築事務所(現在の三菱地所?)に入所し、丸の内三菱関係の建設事業などに携る。
        大正2年保岡建築事務所開設。銀行の支店や商業建築などのほかに、当時郊外に進出し始めた都市生活者:サラリーマンのための郊外住宅を手がけた。
        住宅に関する著作も多く、わが国最初の住宅作家ともとらえられている。

        そのキャリアから、西洋のクラシックな建築手法を身につけていたのでしょう。



        この銀行の頂いているドーム;イタリア風にいうとクーポラは、隅部の塔をドラムとして、その上に円錐形の曲面を成し、頂部に優雅なランタンをのせているところなど、イタリアで成立したルネッサンス、バロックの様式を伝えているといえます。

        ただし他の外壁面には古典的手法は使わず、シンプルな装飾の窓やゼブラ模様の入った控柱など独特のデザインがなされています。



        保岡の手になる建物は道の反対側にも残っています。

        それが旧山吉デパートの建物です。

        昭和11年竣工と伝えられている鉄筋コンクリートの建物ですが、第八十五銀行とは変わって、西洋建築の古典的頂部とそれを支えるイオニア式のジャイアントオーダー(付け柱)が特徴的で、古典主義デザインをうち出しています。最近修復がなされました。



        この隣に建っている田中屋。(この店舗は保岡の設計ではありません)

        目を引くのが2階窓の三連アーチと間を埋めるイオニア式(のような)付け柱です。

        柱は窓台から持送りで支えられていますが、後期ルネッサンス期のミケランジェロを髣髴とさせるような手法です。


        ミケランジェロのデザイン;サンロレンツォ図書館前室の付け柱と持送り
        [Renaissance Architecture] Peter Murray より

        ミケランジェロ Michelangelo Buonarroti  1475〜1564

        イタリア・ルネッサンスを代表する彫刻家、画家、建築家。
        フィレンツェ出身で、メジチ家の庇護を受け、その後ローマに渡り活躍。
        建築作品はおもにフィレンツェとローマにあり、サン・ピエトロ大聖堂の主任建築家にもなった。現在のサン・ピエトロ大聖堂は内陣や大ドームが彼の設計にもとづいている。


        ミケランジェロは端正なルネッサンス建築に躍動感と威厳を与え、バロックの父とも言われています。


         

        田中屋のこの柱、柱上帯を省略していきなり軒蛇腹を支えているところなど、当時の工匠の努力のあとが見られ微笑ましいところです。


        ちなみに(西洋)古典主義建築のもととなった、ギリシャ神殿・イオニア式のデザインの基本形はこれです。


        図:[ARCHITECTURE SOURCEBOOK] Russell Sturgis より

        溝彫りのある円柱が礎盤の上に建ち、渦巻き型柱頭の上には柱上帯(:アーキトレイヴと呼ぶ)があり、その上に軒蛇腹(:コーニスと呼ぶ)という装飾帯がのります。


        イオニア式神殿の例:アテネのエレクティオン
        (図の出典は同上)

        アーキトレイヴには(その上にもう一段の水平材:フリーズが載ることもあります)ファッシャという3段の帯や、コーニスにデンティルという歯型の飾りがあるものが様式の特徴です

        このような(柱の上に載る)古典様式で装飾された水平材をエンタブラチュアと呼んでいます。

        旧山吉デパートはさすが保岡の設計で、柱はしっかりととエンタブラチュアを支え、その意匠もイオニア式の伝統を守り、アーキトレイヴにはファッシャが、コーニスにも小さいデンティルが施されています。


        川越にはこのほかにもう1棟、保岡の設計になる建物が残されています。それは現在市の所有する旧山崎別邸です。


        旧山崎別邸

        大正14年築の住宅で、一番街に蔵造りの店を構える有名な亀屋さんの当時の隠居所であったとのこと。


        一番街にある亀屋

        洋館に和風の住宅が合体した造りになっていますが、洋館はアール・ヌーボー調で、和館は数奇屋風です。このような和洋折衷の住宅は保岡の得意とするところであったらしく、茶室にも通じていたこともあって、和館のインテリアには丸太普請が取入れられています。

        また、庭園内には京都仁和寺の遼廓亭を写した茶室も残されています。


        日本建築史基礎資料集成より


        遼廓亭:りょうかくてい

        京都・御室の仁和寺内にある茶室。もと同時門前の邸宅内にあったものを天保年間に移築したと伝えられ、その邸はもと尾形乾山(1663〜1743)の住居であったことから、兄の尾形光琳(1658〜1716)の好みであると伝えられている。内部は信長の末弟織田有楽(1547〜1622)が晩年に営んだ如庵(国宝)の写し。

        山崎別邸ではこの図の左半分(茶室の部分)が写されています。


        一番街にはこのほかにも洋風商店建築があります。(写真にはないですが、まだ数軒あります)。

         
        一番街通りに面する洋風店舗


        路地の奥にも続いている(道路の計画があって出来たとのこと)
        (この写真は2010年頃撮影)


        この南方、一番街から本川越駅に通じる道路:中央通り沿いにも多くの洋風店舗が建っていました。
        これらは外壁を立ち上げ屋根を見せないスタイル(看板建築と呼ばれています)ですが、中にはその壁に凝ったデザインと職人の手仕事が施されていて一見に値するものもあります

         

         

        この街路は昭和初期に新しく開通したので、それにあわせて新たに建てられたものが現在も残されています。一部歩道上にアーケードがありますが、補修されないままなのが痛々しいです、、。

        道から少し入ったところにも何軒か存在します。

         
        路地に面した洋風店舗 凝った意匠が目を引きます


        こちらは道路から奥にある洋風住宅



        保岡のような西洋建築の教育を受けていない、おそらく地元の工匠と商店主の合作であると想像しますが、そのデザインには計算されていないエネルギーを感じます。
        大正から昭和初期にかけて東京の商業地に現れた洋風店舗を模したものだと思われます。



        県道との交差点角にあった建物 このときは紳士服の店でした


         

         
        一番街から南下した、本川越駅の近く


         

        中央通りから少し奥に入ったところにも

        中央通りは拡幅される予定ですので、ここにある建物は撤去される(あるいは撤去済み)ものが多いのではないでしょうか。
        (2)につづく。


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