多磨霊園のデザイン(4)

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    さて、多磨霊園の墓では、扉がつけられ、おそらく中部に遺骨を収納していると思われる墓石が見られます。これを仮に納骨堂型と分類します。この形式が結構多く、神殿のスタイルを取入れたものやモダンなものまで数種に細別できます。
    以下それぞれ見ていくことにします。

    納骨堂+墳墓型。
    (3)でも取り上げた墳墓型ですが、納骨する空間を台にして、上部に墳丘を模した立体を載せたもの。


     
     
     
    墳丘を模したドームの下部はやはりシンメトリーにつくられています。
    上部の曲面などコンクリート系で作ったものは、雨に洗われて黒ずんでいます。やはり石は年月に打ち勝つ素材であることがわかります。
     

    納骨堂+霊廟型。
    神社風、仏殿風、単純な切妻屋根から唐破風形式の曲線屋根までいろいろとそろっています。中には小堂というよりも建築物となっているものもあります。

     
    切妻型反屋根を持つ神社風
     

    唐破風相輪付き仏塔風       切妻型の始原的形体;大谷石製
     
    ほとんど建築物。右のものは築地本願寺の影響と思われます(真宗?)



    納骨堂+ギリシャ神殿型。

    納骨空間の上部や前面にギリシャ神殿のモチーフが取り付けられたもの。屋根に墳丘が載っているものもあります。

     

    ドリス式柱頭やエンタブラチュアのようなモチーフ
     
    古典的要素を取り入れながら門型に
     
    ギリシャ神殿+唐破風の和洋折衷型
     
    屋根にもしっかりと手が加わっています


    納骨堂+ヴォールト型。
    納骨空間の屋根をヴォールトというカカマボコ型屋根として、正面にそのアーチを見せたもの。

     
     
    結構多く見られる形です。雨仕舞がよいのかもしれません。
    ヴォールト下部両端に古典的付柱を設けることが多いようです。


    納骨堂+表現主義ドーム型。
    これも多く見られるスタイルで様式の分類が難しいのですが、上部にドームを乗せ、正面を曲線や古典風の門型にデザインした、20世紀初期の表現主義建築風なもの。


    ゲーテアヌム 1928 シュタイナー設計 建築学会編「近代建築図集」より
    表現主義建築・第一次大戦後主にドイツで起こった、幻想的で自由な曲線などを用いた建築様式。日本でも関東大震災後の復興建築に用いられた。

     
     
    屋根には大概ドームが載っているので、上記墳墓型の類型と考えることも出来ますが、前面が切り落とされた形なので、アーチ型があらわれ、そこに何らかのデザインが施されています。


    納骨堂+モダニズム型。
    装飾を廃し、幾何学的な立体で構成された、モダニズム建築の手法を取り入れた形体のもの。

     
    少し古典的要素を持った硬く堅実な表現
     
    灯篭までもモダニズム       徹底してモダニズム

    その他の納骨堂型。
    上記の形式を混用したものやその他の形。

     
    モダニズム+墳墓形式       神殿風+モダニズム
     
    とんがり屋根がなんとなくゴシック調。



    さて、最後に墓地のイメージから突抜けた興味深いものの例を紹介します(おそらく広い敷地内には他にもあるはずですが)。

    上記モダニズム型ですがその巨大な例。3m以上の高さがあると思われます。


    これも2m以上の高さがあります。

    本体は長年の風雨に晒されていますが、それをむしろ逆手に取り、前面献花台を現代の工業製品:ガラスやスチールなどで作り対比させて、時間の蓄積を表現した心憎い演出と見ました。


    球体の墓石も多く存在しますが、これはさらに上部に方形の盤を乗せています。盤の端部は直角ではなく斜めにカットされています。抽象彫刻のようでもあります。



    ご存知の通りピラミッドも墓ですが、エジプトだけでなく古代ローマでも墓石として採用することがありました。エジプト〜ローマ〜多磨へとはるばるやって来たことになります。
     


    18世紀の著名な版画家ピラネージが描いたローマ、ガイウス・ケスティウスの墓(BC.12頃)


    おそらく内部に墓があるのだと思いますが、それを木造の覆屋でかこった例。覆堂は平泉の中尊寺金色堂、宇治上神社など実例があります。


    自らの眠る墓の隣に、生前の姿を永遠にとどめているようです。墓石のデザインと同様ダンディーであります。



    多磨霊園は著名人が多く眠っているので、それらを訪ね歩く人も多いと思いますが、本編では墓石などのデザインを純粋にあれこれ鑑賞いたしました。




    多磨霊園のデザイン(3)

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      多磨霊園は公園墓地として開園したため、自然環境にも優れ、現在でも多くの人が散策に訪れています。但し文字通り霊園であるため、用地はお墓として多くが使われています。


      各墓地の区画は園内道路沿いでは大きく、奥に入るに従って小区画になっていきます。


      一般に我々がイメージする墓とは立方体の石を上部になるほど細くなるように数段重ねたものですが、園路沿いの大区画墓所には当時の有力者の墓も多いためか、いろいろな形体をしたものがあります。


      墓石の一般的な形


      墓所は人々が葬られている場で、ゆかりの現世人が故人を偲んで参る場所でもあります。
      墓石は埋葬者の生前の事績を表現することもあれば、訪れる人々になにかのメッセージを伝えるためにデザインされることもあります。


      東京都公園協会のサイト、TOKYO霊園散歩では、霊園を都民の共有財産で歴史的資源としてもとらえ、節度を持って墓園を巡ることも進めています。


      今回はその趣旨に従う形で、多磨霊園の墓所及び墓石の優れた意匠を鑑賞してみました。


      ここで取上げたものはあくまでも当方の主観で選んだもので、おそらく墓地所有者の意向をくんで趣向を凝らした比較的古そうなものとしました。

      形に人の作為が加わったものを選び、自然石の墓石は取り上げていません。

      また、墓所内に立入らないよう園路からながめ、写真もそこから撮っています。埋葬者の名前などが明確にならないよう刻まれた文字は修正処理をしています。


      では、それらをこれも勝手に形式によって分類しながら見ていきます。


      まず墳墓型

      日本の古墳も土を盛り上げた墳墓ですが、墳丘を石で覆ったものもあったようです。それを模したような形。鳥居があるものはあたかも貴人の陵墓のようです。

       



      また、墳丘に当たるところを植栽で覆ったものもあります。
       

      ローマの皇帝ハドリアヌスの墓も同じような円形構造物に盛土植栽がなされていました。

      ローマ、ハドリアヌス帝廟復元図 建築学会西洋建築史図集より
      テベレ川沿いにあり現在はバチカンの聖天使城に改修されている

      ローマ人は日本と同じく多神教で、種々の形の構造物を墓として建てていました。人の営みには共通点があります。


      次に宝塔型


      日光 徳川家康廟

      それほど古そうものではありませんが、歴代徳川将軍の墓のような宝塔型:釣鐘型の胴に反った屋根をつけた墓石の形体。

       




      宗教を体現した形

      キリスト教や仏教に見られる造形を取入れ、宗教がそれとすぐにわかるような墓石です。いろいろな形があります。

      まずはキリスト教


      これは共同墓地で古くはなさそうですが、キリスト教らしいものの1例。


      ゴシック教会堂にみられる天にのびる意匠を取り入れた墓石。
      なかなか良いデザインだと思いますが、ヨーロッパにこういうスタイルがあるのでしょうか。

      ゴシック教会堂の例
       
      シャルトル大聖堂(13世紀) ミラノ大聖堂(19世紀完成)
      ゴシック教会堂は天へと伸びるような意匠装飾を持ち、正面に塔を2つ建てる
      双塔形式や、中央を尖らせた尖りアーチを使う

       
      左は小ぶりな品のある墓石ですが、両脇に松ノ木が立っていて教会堂正面の双塔を隠喩しているようにも見えます。
      右は幾何学的な納骨堂形式ですが気品ある姿です


      仏教系。
      日本人はほとんどが仏教なので、墓も一般的に仏教ということになります。その中での1例。


      霊園内には五輪の塔や宝篋印塔が建てられた墓所がたくさんあるのですが、これは宝篋印塔と仲良く並んでいのもので、左側の墓石の形:上部を絞った胴に相輪を頂いたスタイルがなかなか良い感じです。

      相輪:寺院の五重塔などの上部に取付けられた金属製の装飾



      モダニズム型墓石。
      20世紀に起こった、装飾をせず幾何学的形体のみで美を表現する形式です。


      幾何学的ながら古典的要素も残した例

       
      幾何学的立体の組み合わせで出来ている例。
      右側のシンメトリー状に壇が重ねられているものは、ピラミッドを想起させるのか如何にもお墓という感じがします。


      上記とは別に、多磨霊園では一つの広い墓地区画を共同墓地としているものもあります。その中の一例で無縁墓地の墓石(墓石と呼んでよいのでしょう)。


      昭和4年とあるので戦前のもの。中央にゴシック教会堂の出入口を模した銘文を掲げる凹みが設けられています。ゴシック調なのでキリスト教系かとも思いますが脇に卒塔婆が立てられています。


      これもその横の無縁墓地のもの。おそらく戦前のもので、当時一部で流行したライト(建築家フランク・ロイド・ライト:当ブログ「川越洋館列伝(2)参照)風を取り入れてなかなかの出来栄えに思います。

      (4)へ続く。








      多磨霊園のデザイン(2)

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        墓苑の中心地である名誉霊域中ほどに、霊園のシンボル、噴水塔が建っています。

         
        噴水塔(シンボルタワー)全景

        鉄筋コンクリート造(おそらく)で、昭和5(1930)年の竣工です。

        八角形の塔で上部に同型の八角小塔をもう一段戴いた二段の形となっています。

        アーチ型の開口を各面に設け、八本柱の円筒にも見える姿をしていて、角部分には丸型付柱を配し、上下段共にその頭部も円形に丸めているので、あたかも頂点から水の流れを表しているようにも見えます。


        噴水塔頂部

        脚部は円形基壇の上に建ち、その階段は八角の各点に対応して放射される石の小隔壁によって分割されています。


        塔の足元と基壇

        段は煉瓦ながら施釉されたおそらく塩焼き煉瓦で、これもその当時のものと思われます。
        高さは15mあるとのこと。


        この塔の意匠は明らかにアールデコ様式です。

        パリのアールデコ博覧会が催されたのが1925(大正14)年でちょうどその5年後にあたり、その影響を大きく受けたものと考えられます(ちなみに現在の東京都庭園美術館:旧朝香宮邸の竣工は昭和8年)。

        ・アールデコ
        1925年にパリで開催された「現代装飾産業芸術国際博覧会」通称アールデコ博覧会を機に、パリやアメリカの商業建築や豪華客船高原品などに広まったスタイル。左右対称、幾何学的形体や流線型、ジグザグ文様などが主な特徴。素材もガラスや金属、漆調塗装などを使う。
        日本では旧朝香宮邸が秀逸な例。

          
        アールデコ展のボンマルシェ館   旧朝香宮邸インテリア

        設計者は東京市の技術者かと想像しますが、あるいは井上清かもしれません。東京都に資料が残されていれば明らかとなりますが、現状では当方不案内です。いずれにしても確かなデザイン力の持ち主といってよいでしょう。

        内部に入ると水盤:噴水があり、台座は8本の鋭角柱を束ねた形で、これもアールデコ調の優れたデザインです。残念ながら現在水は出ていません。

         
        内部の噴水詳細

        内部天井はドーム型に造られています。


        天井見上げ


        このように当時のアールデコ建築の良品としてよいと思います。
        80年ですが、塗装など修復していて一応の手入れがなされているようです。


        これとは別の塔も存在します。

        一つはある墓地区画の中央部分に残された小塔です。

         

        高さは4m位でしょうか。これもおそらくコンクリートで、仕上げは化粧モルタルが施されたX型平面の塔です。

        塔の下部では、中心部分の柱から立方体が突き出し、その上部に錆びたパイプが取付けられているので、これも噴水塔だったのでしょうか。あるいは墓参者のための給水施設かもわかりません。
        但し、排水口が見あたらないので、どのように使っていたかは不明です。


        脚部詳細 突出した部分上面に鉄パイプが取り付けられている

        広い円形基盤の上に建ち、X字の四隅先端部分は頂点を尖らせて、高さへの意思を表現し、頂部にはアールデコ調の棟飾りが取り付けられているなど設計者の技量を感じます。

         

        また、前述の給水部分と考えられる立方体は前面をV字型にへこませるなど細部にもこだわったデザインがなされた、モダンな造形物です。

        現在は放置されているようですが、結構古そうで、一見に値します。もし戦前のものであるならば、名誉霊域の噴水塔にもおとらない貴重な近代遺産です。


        これと同じ趣向でデザインされた給水施設も数点存在します。
        いずれも使われず放置されていますが、おそらくコンクリート、化粧モルタル仕上げで、作られた時期も古そうで戦前までさかのぼるかもしれません。


        一つは高さ5尺ほどの十字型のもので、上部に開口をとり、そこに円形水盤が取付いています。



        そこから四方に水が落ちていたようで、その水跳ねを考慮したのか腰には小型の方形タイルが貼られています。



        十字型立方体の各先端面はV字にへこませた意匠となっていて細部にも気をくばっています。



        別のものは、二重の円形基壇の上に取付けられた円形水盤で、これも十字型の立体が支えています。

         

        この十字は基壇に直接乗らず中心の一点で接するようにデザインされ、各先端面もV字型に削られていて、前述給水施設と同じ手法をとっています。


        ほかに、8角形の水場もありました。



        基壇となる部分は矩形の敷石を十字型に配した(おそらく使用者の立ち位置)しゃれたデザインで、本体上部にはコの字型を重ねた意匠のタイルを上下貼り違えた帯状装飾が施されています。


        これらは当方が確認できたものですが、広大な敷地なので他にも存在するかもしれません。
        いずれも放置された状態ですが、どれも良質のデザインがなされたもので、保存措置がなされるとよいのですが。


        また、塔としては、北門(小金井門)広場の中央庭園内にも建っています。


        小金井門広場の塔全景

        これも前述給水施設と同種の十字型平面を形成しその先端面もV字型にへこませた同じデザイン手法がとられています(設計者が同人物か)。また連続して空けられた四角い穴には透かしの装飾が嵌込まれています。



        この塔は北門の広場のシンボルとして大切に扱われているようです。
        現在白く美装されていますが、これも古いものなのでしょうか、そのあたりはよくわかりません。



        この広場には古そうな水場が残っていました。



        中央の水場を、連窓を持つ壁で三方囲い、1段あがった床は古そうなクリンカータイル貼りとしています。



        給水口は3箇所あり、それぞれが立方体で壁面から飛び出したモダンな意匠です。中央部分の給水口は壊れていますが両側給水口が改造されて現在も使用されています。




        このように多磨霊園はその計画の近代性だけではなく、モダン意匠の造形物も残されていて、それらを鑑賞しながら散策することも出来る場所でもあるのです。



        多磨霊園のデザイン(1)

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           多磨霊園は東京の西郊、府中市と小金井市にまたがる地にあり、大正12(1923)年に開園しました。

          現在都営の霊園は谷中や青山、小平など数箇所ありますが、その中でも最大の面積を誇り(128ヘクタール)、多くの著名人が埋葬されていることでも知られています。


          多磨霊園正門

          ここに霊園が開かれたのは、江戸が東京となった明治以降、都市としての状況が大きく変わったことによります。

          江戸時代には、人々はいずれかの寺院の檀家となっていたので、旗本も庶民も寺の墓地に葬られていました。が、明治になってこの菩提寺制度が廃され、おまけに多くの人が流入してきたため、当時の東京市は墓苑を開いて埋葬地を確保することになったのでした。


          以下多磨霊園の概要は都立霊園のサイトのほかに、主に村越知世著「多磨霊園」東京公園文庫(2002)によります。


          さて、上記の理由で市は、谷中、雑司ヶ谷、染井、青山の各霊園を明治初期に開園しましたが、大正時代になってさらなる需要にこたえるため、大規模な墓苑地を郊外に求めることとなりました。

          その計画は大正8年頃からが始まり、用地は現在の府中、小金井両市内にあった旧多磨村に選定されました。
          この地がえらばれた理由として、人家のほとんどない広大な農地であったことが大きかったのですが、同時に甲州街道から近く、また京王線や、西武多摩川線の駅が近くにあり、交通の便も考慮したとのことです。

          敷地全体を当時の欧州にみられた林地や公園と墓苑とを合体させた「公園墓地」とすることになり、これが日本最初の都市計画共同墓地になったのでした。



          欧州の公園墓地の例
          映画「第三の男」で知られるウィーン中央墓地

          この計画を主に進めたのが東京市の公園課技術掛長でのちの公園課長:井下清という人物で、霊園の整然とした全体計画から細部までがおそらく彼の手になったと思われます。


          この人は優れたランドスケープデザイナーであったようで、現在でもこの霊園が良好な環境を有しているのは、多くが彼の功績と考えてよいのでしょう。


          その配置プランを見てみると、縦横約1.2kmの5角形をなす敷地に格子状に園路を割付け、全体の軸を東に少し振りながら縦4列、横は5列とし、そのまわりを周回路がまわっています。


          現在の多磨霊園配置図 都公園協会HPの図に加筆

          西に付出た地域があるのは昭和14年に拡張された部分です。この地域は浅間神社のある丘と接していますが、当初はなく、元は周回路で囲まれた下すぼみの矩形の地域でした。




          上図は昭和10年代の航空写真ですが、当初のプランを示しています。
          小金井門もあり、そこから参道が伸びているのもわかります。

          周回路の円弧が南できつくなるのは、敷地の形状によることがわかります。


          格子状主要道路の交点の多くは円形にデザインされ、緑地帯や偉人を顕彰する石碑などが設置されています。

          南北の筋、東から2番目がメインで、名誉霊域(後述)と呼ばれる地域があり、南端の正門に続いています。

           
          正門詳細 左両脇門柱、右中央部分 古そうだが当初の構造物かは不明

          正門から南は開園当初から甲州街道までの参道が設置され、道の両側には桜の木が植えられ、今もその景観は残っています。


          甲州街道への参道と桜並木

          正門前は大きな円形広場になっていて、現在では管理事務所や納骨堂(みたま堂)合葬式墓地があります。



          納骨堂(みたま堂) 平静5年竣工

          この広場からは北西へ放射状に道路が延び、西端で周遊路に交わっています。
          なぜこの部分だけ放射道路を設置したのか不明ですが、当初この交点の先に何か施設を計画していたのか、あるいは単に西側に敷地を拡張したときの近道として造っただけかもしれません。

           
          西に拡張して出来た現在の西門   西側地域の接する浅間山

          また、開園後しばらくしてから敷地北西隅に北門(現・小金井門)を開き、ここからも参道を設けて現在の小金井街道に接続させました。

           
          小金井門とその門柱(右) なんとなく古そうで当初のものか
          正門より意欲的なデザインで、表現主義風にできている

          この道は中央線武蔵小金井駅への便をはかったもので、桜も植えたとの事ですが、現在並木は残っていません。


          小金井までの参道

          この北門前も楕円形の広場を設け、今は芝生の小公園となっています。


          小金井門越にみる広場


          園内は多くの樹木が植えられ緑豊かな空間になっていますが、当初からあった赤松などの樹木はすべて保存し、さらに、園路沿いや交点などの小広場に植樹をおこなって、修景につとめたようで、文字通り公園墓地の景観をよく示しています。


          全体の配置を見ると格子状の園路は東西に4枡あるので、中心の通り(:現バス通り)を主要な南北大路として、左右対称の厳正な配置としてもよさそうなのですが、その東隣の筋がメインの園路となり、南端に正門を開けています。



          中央の筋をそのまま南へ伸ばし、正門、参道、甲州道、駅へと導くことに支障はなかったように思えますが、買収前の原野に何か事情があったのでしょうか。そのあたりのところは当方には不明です。

          この中心路の北端は現在東八道路からの入口になっていて、路線バスもここから入園します。


          東八道路からの入口(運転免許試験場前あたり)

          また南端も一般道への出入口があるので自動車が頻繁に通っています。おそらく東八道路から、甲州街道への抜け道になっている模様です。


          さて、前述の正門から北上する園路は、道路中央と両側に緑地帯を設け公園墓地はかくやあるべきとの景観をなしています。


          中心の園路:名誉霊域

          おそらく本計画上最も力を入れたところでありましょう。ここは名誉霊域と呼ばれる地域で国家の功労者が埋葬される場となっています。

          ただ、現在ここに眠っているのは日本海海戦の英雄東郷平八郎と、太平洋戦争時の連合艦隊司令長官山本五十六、古賀峯一の3人だけです。

          東郷平八郎がここに埋葬されたのは東京市自ら誘致した結果でありました。



          東郷平八郎 弘化4(1847)〜昭和9(1934) 東郷神社サイトより

          現在、この地に公共交通を利用していく場合は、西武多摩川線の多磨駅か、京王線の多磨霊園駅から徒歩で行くか、中央線武蔵小金井駅からバスを利用することになります。いずれにしても電車で都心からは小一時間はかかる距離にあります。


          今でもこのぐらい時間がかかるので、開園当時はそうとう遠かったであろうことは想像に難くありません。その頃は武蔵小金井駅も、西武線多磨駅もまだありませんでしたので、京王線の駅から約1.5kmの距離を歩かなくてはなりません。
          そのため墓苑では備品の車を使って駅まで有料で送迎をしていたようですが、大きな効果はあげていなかったようです。従って開園後10年を過ぎても市民にとって僻地というイメージは拭えず、埋葬地として応募する人数も今ひとつであったとのこと。


          ところが昭和9年の5月、軍神とあがめられ世界に名の知られた東郷平八郎が死去しました。
          この報に接し当時の東京市長自ら多磨墓地に埋葬されることを海軍省に申し入れ、場所も当然偉大な功労者を埋葬する名誉霊域を提供しました。

          東郷家では青山霊園に墓地があったのですがこの請願を受け入れることになり、こうして東郷が名誉霊域埋葬者の第一号になったのでした。


          名誉霊域にある東郷平八郎の墓

          ここから多磨霊園が市民の間に周知され、東郷元帥と同じ地に我もと応募者が増大したとのことです。




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