多磨霊園のデザイン(1)

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     多磨霊園は東京の西郊、府中市と小金井市にまたがる地にあり、大正12(1923)年に開園しました。

    現在都営の霊園は谷中や青山、小平など数箇所ありますが、その中でも最大の面積を誇り(128ヘクタール)、多くの著名人が埋葬されていることでも知られています。


    多磨霊園正門

    ここに霊園が開かれたのは、江戸が東京となった明治以降、都市としての状況が大きく変わったことによります。

    江戸時代には、人々はいずれかの寺院の檀家となっていたので、旗本も庶民も寺の墓地に葬られていました。が、明治になってこの菩提寺制度が廃され、おまけに多くの人が流入してきたため、当時の東京市は墓苑を開いて埋葬地を確保することになったのでした。


    以下多磨霊園の概要は都立霊園のサイトのほかに、主に村越知世著「多磨霊園」東京公園文庫(2002)によります。


    さて、上記の理由で市は、谷中、雑司ヶ谷、染井、青山の各霊園を明治初期に開園しましたが、大正時代になってさらなる需要にこたえるため、大規模な墓苑地を郊外に求めることとなりました。

    その計画は大正8年頃からが始まり、用地は現在の府中、小金井両市内にあった旧多磨村に選定されました。
    この地がえらばれた理由として、人家のほとんどない広大な農地であったことが大きかったのですが、同時に甲州街道から近く、また京王線や、西武多摩川線の駅が近くにあり、交通の便も考慮したとのことです。

    敷地全体を当時の欧州にみられた林地や公園と墓苑とを合体させた「公園墓地」とすることになり、これが日本最初の都市計画共同墓地になったのでした。



    欧州の公園墓地の例
    映画「第三の男」で知られるウィーン中央墓地

    この計画を主に進めたのが東京市の公園課技術掛長でのちの公園課長:井下清という人物で、霊園の整然とした全体計画から細部までがおそらく彼の手になったと思われます。


    この人は優れたランドスケープデザイナーであったようで、現在でもこの霊園が良好な環境を有しているのは、多くが彼の功績と考えてよいのでしょう。


    その配置プランを見てみると、縦横約1.2kmの5角形をなす敷地に格子状に園路を割付け、全体の軸を東に少し振りながら縦4列、横は5列とし、そのまわりを周回路がまわっています。


    現在の多磨霊園配置図 都公園協会HPの図に加筆

    西に付出た地域があるのは昭和14年に拡張された部分です。この地域は浅間神社のある丘と接していますが、当初はなく、元は周回路で囲まれた下すぼみの矩形の地域でした。




    上図は昭和10年代の航空写真ですが、当初のプランを示しています。
    小金井門もあり、そこから参道が伸びているのもわかります。

    周回路の円弧が南できつくなるのは、敷地の形状によることがわかります。


    格子状主要道路の交点の多くは円形にデザインされ、緑地帯や偉人を顕彰する石碑などが設置されています。

    南北の筋、東から2番目がメインで、名誉霊域(後述)と呼ばれる地域があり、南端の正門に続いています。

     
    正門詳細 左両脇門柱、右中央部分 古そうだが当初の構造物かは不明

    正門から南は開園当初から甲州街道までの参道が設置され、道の両側には桜の木が植えられ、今もその景観は残っています。


    甲州街道への参道と桜並木

    正門前は大きな円形広場になっていて、現在では管理事務所や納骨堂(みたま堂)合葬式墓地があります。



    納骨堂(みたま堂) 平静5年竣工

    この広場からは北西へ放射状に道路が延び、西端で周遊路に交わっています。
    なぜこの部分だけ放射道路を設置したのか不明ですが、当初この交点の先に何か施設を計画していたのか、あるいは単に西側に敷地を拡張したときの近道として造っただけかもしれません。

     
    西に拡張して出来た現在の西門   西側地域の接する浅間山

    また、開園後しばらくしてから敷地北西隅に北門(現・小金井門)を開き、ここからも参道を設けて現在の小金井街道に接続させました。

     
    小金井門とその門柱(右) なんとなく古そうで当初のものか
    正門より意欲的なデザインで、表現主義風にできている

    この道は中央線武蔵小金井駅への便をはかったもので、桜も植えたとの事ですが、現在並木は残っていません。


    小金井までの参道

    この北門前も楕円形の広場を設け、今は芝生の小公園となっています。


    小金井門越にみる広場


    園内は多くの樹木が植えられ緑豊かな空間になっていますが、当初からあった赤松などの樹木はすべて保存し、さらに、園路沿いや交点などの小広場に植樹をおこなって、修景につとめたようで、文字通り公園墓地の景観をよく示しています。


    全体の配置を見ると格子状の園路は東西に4枡あるので、中心の通り(:現バス通り)を主要な南北大路として、左右対称の厳正な配置としてもよさそうなのですが、その東隣の筋がメインの園路となり、南端に正門を開けています。



    中央の筋をそのまま南へ伸ばし、正門、参道、甲州道、駅へと導くことに支障はなかったように思えますが、買収前の原野に何か事情があったのでしょうか。そのあたりのところは当方には不明です。

    この中心路の北端は現在東八道路からの入口になっていて、路線バスもここから入園します。


    東八道路からの入口(運転免許試験場前あたり)

    また南端も一般道への出入口があるので自動車が頻繁に通っています。おそらく東八道路から、甲州街道への抜け道になっている模様です。


    さて、前述の正門から北上する園路は、道路中央と両側に緑地帯を設け公園墓地はかくやあるべきとの景観をなしています。


    中心の園路:名誉霊域

    おそらく本計画上最も力を入れたところでありましょう。ここは名誉霊域と呼ばれる地域で国家の功労者が埋葬される場となっています。

    ただ、現在ここに眠っているのは日本海海戦の英雄東郷平八郎と、太平洋戦争時の連合艦隊司令長官山本五十六、古賀峯一の3人だけです。

    東郷平八郎がここに埋葬されたのは東京市自ら誘致した結果でありました。



    東郷平八郎 弘化4(1847)〜昭和9(1934) 東郷神社サイトより

    現在、この地に公共交通を利用していく場合は、西武多摩川線の多磨駅か、京王線の多磨霊園駅から徒歩で行くか、中央線武蔵小金井駅からバスを利用することになります。いずれにしても電車で都心からは小一時間はかかる距離にあります。


    今でもこのぐらい時間がかかるので、開園当時はそうとう遠かったであろうことは想像に難くありません。その頃は武蔵小金井駅も、西武線多磨駅もまだありませんでしたので、京王線の駅から約1.5kmの距離を歩かなくてはなりません。
    そのため墓苑では備品の車を使って駅まで有料で送迎をしていたようですが、大きな効果はあげていなかったようです。従って開園後10年を過ぎても市民にとって僻地というイメージは拭えず、埋葬地として応募する人数も今ひとつであったとのこと。


    ところが昭和9年の5月、軍神とあがめられ世界に名の知られた東郷平八郎が死去しました。
    この報に接し当時の東京市長自ら多磨墓地に埋葬されることを海軍省に申し入れ、場所も当然偉大な功労者を埋葬する名誉霊域を提供しました。

    東郷家では青山霊園に墓地があったのですがこの請願を受け入れることになり、こうして東郷が名誉霊域埋葬者の第一号になったのでした。


    名誉霊域にある東郷平八郎の墓

    ここから多磨霊園が市民の間に周知され、東郷元帥と同じ地に我もと応募者が増大したとのことです。





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