井の頭弁財天と石造物 3

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     次に弁財天周辺とアプローチ付近にある石造物たちです。

    外周路の西側には辛夷の碑が建っています。



    明治26(1893)年に深川水船組によって寄進されたもの。「徳川三代軍御切付旧積」という文言が掲げられ、寛永6(1629)年三代将軍家光が当地へやって来た時、傍らにあった辛夷の木に小刀で「井頭」(:飲料水の主要な源)と彫ったという故事を顕彰しています。
    この時に井の頭という地名が誕生したということでしょうか。

    正面に戻ると、弁天道に正対する斜面に石段があります。



    これも江戸時代文政元(1818)年に成ったもので下端壇石には「」「」と彫りこまれ、上端のそれには「」「講中」と彫られています。


    石段下端

      
    石段上端壇石の文字

    参道から池畔に降りていく主要な階段で、江戸市中からはるばるやって来た人もこの文字を見ていたのでしょう。


    石段を登ったところは江戸から続く道:参道の終点で、大盛寺の入口にもなっています。


    石段を登った所から参道見返し

    大盛寺は天台宗の寺院で深大寺の末寺。元は弁財天を守る小坊であったのが江戸初期に改建されたものと伝えられています。現在の本堂は昭和63年に竣工したもの。

      
    大盛寺(左)と弁財天                大盛寺

    参道は石段と斜めに交わっていますが、こうした軸線を振る配置は日本建築によく見られるものです。左右非対称や直角としない配置は、空間にある種の躍動感を生み出します。



    そしてこの配置にそって石造物も建っています。

        
    参道の終着点  駐車場に使われてしまっている
    軸を振った配置に建つ燈篭  新しい大盛寺の石柱は配置を破調しているかも

    まず石段の両脇に建つ燈篭。



    幕末の慶応元(1865)年のもので、紫燈篭と呼ばれています。 
    助六でも知られる「江戸紫」という染物は、武蔵野に産する紫草と良質の水によって生まれたのだそうで、その水に謝意をこめて江戸市中の紫根問屋と紫染業者が寄進したとのことです。 


    江戸 紫根問屋と紫染屋、発起人の名が彫られている

    その手前、今度は参道の軸線にあわせて一対の燈篭が建っています。江戸が最も江戸らしかった文化7(1810)年の建立。やはり「講中」の彫込みがあります。

      

    その北隣に宇賀神像:明和4(1767)年 が置かれています。

      

    台座に当たる石の角柱はここにあった鳥居の標石で、「井の頭財天石鳥居講中」と刻まれ、その鳥居の図も彫られています。
    上部には弁財天と習合する宇賀神の像がのせられています。その姿は胴体を蛇、頭部を人間とした不思議なもの。



    肝心の石鳥居の方は明治初年におこった神仏分離によって撤去されてしまったとのことです。その材一部は公園池東端に水門として転用され、今も建っています。


    水門となった石鳥居の部材 ものは明和4(1767)年製

    江戸の人は参道の果に石の鳥居を望んだのでありましょう。


    この参道を戻っていくと、往時の井の頭道(現:井の頭公園通り)との分岐点に至ります。そこが参道の入口となり、道はまた斜めに交わっています。


    旧井の頭道からの参道の入口  「黒門」の看板は地元の鳶の組の名前

    その入口には黒く塗られた鳥居が建っていますが、以前は黒門と呼ばれた門があったとのこと。
    その横には角柱型の大きな道標が建っています。


    鳥居と道標(左) その奥の祠には大黒天が立っている

    遠く江戸からやって来た参詣人が最後に見る道標で、元は延享2(1745)年建てられたものを天明4(1784)年に改建したと由緒が刻まれています。

      

    正面には「神田御上水井頭財天」大きく彫込まれ、基壇には上水の配水された町々の人が名を連ねています。そこには芝居関係者が多く住んでいたようで、瀬川菊之丞、高麗屋純蔵(松本幸四郎)、中村勘三郎といった有名役者や芝居小屋の名も見られます。


    側面、「是より社まで一丁半」とある

    その脇の祠には大黒天の像が立っています。古そうですが、年代はわかっていないようです。


    大黒天像 七福神つながりで置かれているのか



    また公園内に戻ると、弁天堂の対岸には小さな稲荷神社があります。



    いつ頃からあったかよくわからないのですが、正式名を親之井稲荷神社と言い、流造りの一間社に覆屋が掛かっている形式です。

      

    石段は昭和8(1933)年、狛犬のどちらかは大正12(1923)年のものです。

    建物はそれほど古くはなさそうですが、建て替わりながらも、神社として大正時代にはすでにあったものでありましょう。


    江戸天保年間に発行された「江戸名所図会」にも、井の頭弁財天は図入りで取り上げられています。


      

    上:全景  下:弁天堂部分

    これを見ると弁天堂の他に七井不動尊や石橋、石段もあり、茶店も今の位置あたりに出店しています。また、石段上の参道鳥居は紫燈籠と宇賀神横の燈籠との間に建っていたこともわかります。
    但し、弁財天堂は現在の仏堂形式ではなく、本殿と拝殿が分かれ、本殿は流造りの神社形式でありました。


    このように井の頭弁財天は石造物とともに、江戸時代の構成を今もよく伝えているのです。





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