三鷹電車庫の跨線橋(3・太宰文学散歩)

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    さて、今一度三鷹電車庫跨線橋の説明板です。



    「太宰が生きた町・三鷹」ということで、
    その、ゆかりの場所を巡ることができるよう地図が出ています。

    では、これらの場所など訪ねてみます。



    太宰が三鷹に住んだのは昭和14(1939)年で、
    昭和20年から21年にかけて山梨、津軽と疎開をしましたが、
    その後、入水自殺する昭和23年まで三鷹の下連雀に住んでいました。


    下図は太宰が住んだ頃、昭和20年代の三鷹駅南部の地図。
    それに太宰のゆかりの場所などを記入してみました。


     

    左が下連雀地区から井の頭公園まで、右は同図の三鷹駅付近拡大図です。

    これを見てわかる通り、当時は人家は少なく多くが畑地でありました。


    三鷹駅は昭和5年に開業したばかりで、この昭和20年代でも駅前に商店が
    ある程度です。(吉祥寺駅の開業は明治32年、武蔵境は明治22年)



    元々中央線は東中野から立川まで無人の野といってもよいところを、
    一直線で敷設されました。
    なので三鷹駅も元は人家のなかった場所だったはず。



    ところで三鷹駅南部には古くから上連雀、下連雀の村がありました。

    この両村は江戸時代初期の明暦の大火の後、神田連雀町の居住者が
    幕府によって移住させられたことに始まります。

    彼らが移住後設立したのが、太宰の墓のある禅林寺です。




    現在の禅林寺、門

    禅林寺には森鷗外の墓もあります。西隣は連雀の氏神、八幡神社。
    この南を東西に走る道が連雀通りで、地区の主要道です。
    この道の南北には人家が古くからあったようです。



    太宰が住んだのは、同じ下連雀でも、この連雀通りと中央線との中間で、
    東の吉祥寺に寄った場所です。

    畑の中に建てられた借家であったとのこと。駅から徒歩20分はあります。

    現在では、静かな住宅地となり、その借家は残っていませんが、
    借家に入る路地の反対に、三鷹市の茶室で井心亭という施設があり、
    その庭園内に借家にあった百日紅の木が移植されているとのこと。




    現在の太宰旧宅前の道
    南北の筋道で右の木々が井心亭の庭 その反対に路地があり、奥に太宰の借家があった


     

    井心亭の庭というか垣根に移植されている百日紅 その説明板


    ここ太宰宅から北にしばらく行くと、玉川上水に至りますが、
    その上水に沿いには山本有三が住んでいました。

    この洋館は現在もあり、三鷹市の施設「山本有三記念館」として
    公開されています。


     

    旧山本有三邸・現山本有三記念館  太宰は借家住まいであったが、こちらは豪邸である

    この建物、しっかりした建築家の設計であることは間違いないのですが
    それが誰だかわからないという不思議な家。
    元は貿易商のものだったのを山本有三が買取り、
    戦後はGHQに接収され、山本が帰ることはありませんでした。

    戦前の三鷹で山本と太宰は同じ地域に住んでいましたが
    交流はなかったようです。




    さて、三鷹駅周辺に戻ります。

    駅の南口は多少の店があり、太宰が通っていた飲食店や
    仕事場として借りていた商家があったとのこと。




    その跡地の一つに太宰治文学サロンがあります。



    ここはマンションの1階ですが、元は太宰一家がよく利用した
    伊勢元という酒屋の跡であるとのこと。




    その写真と説明板

    この施設の面する南北の道を北に行くと
    共に入水した山崎富栄の下宿していた、野川家の跡地になります。




    文学サロンから北へ、野川家跡への道  右側駐車場の奥の建物がそれ
    突き当りが玉川上水  その手前、道の反対側が小料理屋「千草」のあった場所




    その説明板

    反対側にあった、小料理屋「千草」は太宰がよく利用していた店で、
    戦後はその2階を仕事場として借りていたとのこと。

    太宰の住む借家は六畳、四畳半、3畳に玄関、台所、風呂
    という間取り(没後60年記念展図録年譜による)であったから
    家族がいればそこで仕事はしづらかったでありましょう。



    ちなみに上記図録にある通り借家が風呂付きであったのならば
    太宰一家が連雀湯という銭湯(居宅より東へ行った吉祥寺通り沿いにあった)へ
    通っていたのは、風呂が狭かったからなのか、水を組んだりする作業が
    大変だった(太宰は手伝わないと思います)のか、
    あるいは沸かす燃料に事欠いたか、そのあたりは不明です。




    連雀湯の説明版  現在はホンダのディーラーになっている



    現在の吉祥寺通り  画面左(東側)信号奥のトーホーベーカリーは昭和の惣菜パンなどで
    知られている  建物は新しいが結構前からある  散歩の途中で寄る価値有り。




    さて、この文学サロンの道から二筋西の道、
    現在も飲食店が立ち並ぶところですが、太宰が住んだ当時から
    小さな飲食店が連なった道で、よく訪れた通りであったとのこと。




    現在の横丁を南入口から見る  左側斜めに走っている道がさくら通り

    これにちなんで、現在この道を太宰横丁とも呼ぶそうです。

    上写真の横丁入口角、左側の建物に説明板が取り付けられています。

     

    この角の建物の場所に田辺という精肉店の離れで、アパートがあり、
    太宰はこの2階を昭和22年から借りて仕事場にしていたと、
    横丁の説明板上にもう一つ説明書きがあります。


    この横丁南端が交差する道は、現在さくら通りというバス通りに
    なっていますが、昭和20年代はここに品川用水という水路が流れていて
    道は半分の大きさでした。




    さくら通り;品川用水跡  電信柱の奥右の小路が太宰横丁南端
    反対側の古い木造店舗は鮮魚店で、太宰の頃からあったかは不明だが、
    少なくとも昭和40年代には存在していた

    品川用水は玉川上水の分水で、三鷹の西、境浄水場付近で別れ
    遠く品川まで流れていたという水路。
    今は全て埋められて、跡地はほとんど道路になっているらしい。



    以上のゆかりの店などがあった、駅前商店街の北側を
    玉川上水は流れています。

    上記地図で見るとわかりますが、
    玉川上水は三鷹駅を斜めに横切っています。
    この状況は現在も変わりません。

    ただ、太宰が住んだ頃は、上水が線路を潜る橋のすぐ東側に
    踏切があったようで、地名にちなんで八丁踏切と呼ばれていたようです。

    三鷹で開かれた、太宰の生誕百年写真展の図録表紙は
    この踏切で撮されたものだとのこと。




    表紙の説明に昭和23年2月の撮影とあります。
    入水の年の姿です。

    影の具合から南面していることがわかります。
    立ち位置の南に中央線が走り、そのまた南を上水が流れています。
    道はまだ泥道で、両側に木造2階建ての建物が並んでいます。

    太宰が生きていた頃の三鷹(北口なので現在武蔵野市ですが)の
    風景が映されています。


     


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